連続更新記録(土日を除く)に息切れ感を催して今日の投稿に挫けそうになっていたところ、オアシスのようなこれ以上ないタイミングでのご報告メールを読者のコッペさんから頂戴いたしました。しかも最近の記事の流れと親和性のある内容だったので、前触れもそこそこにさっそくコピペさせて頂きたいと思います。
こまけぇさん
初めまして。ずっとROM専をしていましたコッペと申します。
私はずっと「自分=世界」が分からず、分かった!認識変更できた!という方々をこまけぇさんのブログで見るたびに「すごいな~」と眺め、「私にはイマイチ分からないな…」と思っていました。いつしか認識変更したい!というより、こまけぇさんのブログは読んでいて面白いという理由で更新を楽しみにするようになっていました。そして、最近、あまりにもフワッと「自分=世界」とは「自分=自分以外の全部」ということなのではないかと思ったのです。ごくごく個人的な感覚と気付きになりますので、上手く言語化できずにおりますこと、お許し下さい。
例えば、「左手を描いてみて下さい」と言われたら、左手自体をそのまま描いてもいいし、左手の周囲(左手以外の全部)を描いて、左手を浮かび上がらせるということもできますよね。それは左手を構成している世界には左手以外の全部が含まれているから、左手以外の全部を描けば左手は自ずと現れるしかないんです。「左手=左手以外の全部(右手もコップも鉛筆もスケッチブックも洋服も左手以外の何もかもです)」なんです。
「充足=充足以外の全部」で、世界には不足も含まれた全部が在るし、「不足=不足以外の全部」で、世界には充足も含まれた全部が在る。世界とは充足か不足か、このどちらか片方ではなくて充足も不足もグラデーションのように全部が在る世界なのではないかと思いました。ただその「全部が在る世界」から何をどのように選択するかは各人の状況や好み次第だし、そして「何をどのように選択したか」が各人の世界観の違いとして現実に反映されているのだと思います。
私が不足を選択していた時にも不足以外の全部が間違いなく世界に在ったし、私が不幸を選択していた時にも不幸以外の全部が間違いなく世界に在りました。私がいる世界は、私が私だと思っている人間の過去の記憶(だと思っているもの)と習慣的思考から導き出した単なる推測と解釈でしかありませんでした。これからいくらでも意識的に世界を変えていけるし、世界は私が思うよりもずっと柔軟でずっと自由だったんですね。
認識変更ですらないかもしれませんが、私はこの私なりの気付きを得てから生きやすくなりました。この世界に、あなたの楽しいブログのお陰で生きやすくなった人間がいることを伝えたくて、そして、この気付きをもたらしてくれたこまけぇさんとこまけぇさんのブログに感謝をしたくて思い切ってメールを送った次第です。
こまけぇさん、本当にありがとうございました。
寒さが厳しくなってきましたので、どうぞお身体に気を付けてお過ごし下さい。
コッペさん、ありがとうございました。
ということで、私に休息を与える意味でもまだまだ皆さんからのご報告メールをお待ちしております(釣り銭が多かったという些細な話でも私が潜在意識のせいにして記事の体裁に編集いたします)。