- このトピックは空です。
-
投稿者投稿
-
-
オセロパンダゲスト
ある人が【読者様からの嬉しいご報告】のコメント欄に「ありえない展開で叶った」等書いて以降、昨年来毎月続いていた「嬉しいご報告」が途絶えてしまいました。その後も、いくつかこちらの掲示板に投稿はあったものの、専用トピがないと埋もれてしまいますので、専用トピを作らせていただきました。
他の人が何と言おうとも関係なく、ご自身で願望達成したり認識の変更したりして◯職さんに報告し喜びを伝えたい、感謝したいと思いつつ、上記のことから直接しにくい場合には、このトピにどうぞ。
-
Mmゲスト
最近のことなどを(一番手嬉しい)。
もともとご多分に洩れない廃人メンヘラ末期→潜在意識活用で社会復帰&結婚→商業出版(印税少し)
までは叶ったんだけども、そっから停滞。
主に経済状況と仕事で悩んでました(借金とかはない)。ある日、願望叶えるために現実に対処することに嫌気がさし、現実なんてどうでもいいやと思ったのが始まり。
そこから、内面だけで叶えばいいや~
→最初は叶ってることにワクワクしたがすぐ飽きる
→そう思えばそうなる、ほんとに全部叶ってたんだ。現象化も100%起きるだろう
→そもそも今まで欲しいと思ってたことはそう思い込んでただけで、エゴにとっても別に欲しいものじゃなかったかも、と思うようになりました。イメージしても特にワクワクしないのは、別に願ってないのに手に入れなきゃと必死で欲しがろうとしてたのかもって。
叶えなくていいから、思考や感情も自由に出きるし、ほんとに重要じゃない、どうでもいいものなんだって今更ながら体感しました。
願望と思ってたものさえ重要じゃない。
最終的には願望の消滅。
願いがないってことは、なにも重要なものがないということ。最強の自由。そこから別に大きなことは起こってないけど(たぶん上記の過程から一週間たったくらい)、ミニ嬉しいことはありました。
22000円の圧力鍋(欲しかった)プレゼントされた
懸念してた出費が二個なくなった
グルメサイトのポイントでお得にランチ
ランチおごってもらった
見たかった海外ドラマが吹き替えでプライムに登場こんなもんですが笑
あとは、願望なんかどうでもいいって文章を読みたくて、ちゃんとそういう情報に出会えたり。
(業界歴そこそこなので、こちらの記事も、まとめサイトとかも読み尽くしているんですが、新しい人見つかった)他にもあったかもしれないですが、覚えてるのはこれくらい。
起こそう(叶えよう)としてないのに、ちゃんと世界は回っていく。本当にすることはないんだと。
こまけえさんの金と女が降ってきた物語でも、現実が逆にお膳立てしてくる、みたいな描写があったかと思いますが、そんな感じですね。
望みとか叶える義務とは無関係にいるのはとても自由で小気味いいです。悩んでもそれさえ重要じゃないし、認識もレッテルも何も変えなくていい。
私はずっと自由になりたくて、そういう視点でも叶ってるなあと。
細々したことを逐一こまけえさんに送るのも気が引けるので、こういうトピックがあることもとても嬉しい。スレ立てありがとうございました。これも願望実現だよね。
-
Mmゲスト
チマチマ報告。
先日旅行先で、好きなユーチューバーさんと会えました。
食べたかったアイスをその店先で食べていると、前をスーッとそのユーチューバーの方が通っていって。思いきって声をかけて、写真も撮ってもらいました。
撮影ではなくプライベートだったけど、めちゃくちゃ優しく対応してくれて嬉しかったです。他も色々タイミングよく楽しめたのだけど、やっぱり現実に対して「どうでもいいや」という態度を取り始めてからというもの、現実がこちらにお膳立てしてくる、私のために全て(人や物や出来事)が用意されて動いている気がします。
現実(それは主に他人だったり仕事だったりを指す)を世界の中心に据えるのではなく、自分を世界の中心に据える姿勢=現実なんかどうでもいい、という態度なのかもしれないと感じました。
旅行はプラン通りに行ったこともあれば、行けなかったところもあるけれど、行けない場合でも「これが用意してくれた最善ルートなんだな」とちゃんと思えるくらい、予定外のプランの方が楽しかったりしました。
現実に重きがないからこそ、イレギュラーも楽しめる(どうでもいいから執着しない)のだなあと。願いを叶える為とか、波動を良く保つためとかにポジティブシンキングしてるのではなく、自然とそう思えるようになりました。
最終的には願望は消滅するんだろうなとどこかに書いたのですが、願望の消滅とは、何にも魅力を感じない状態ではなくて、もう既にあることが分かるから執着しないという状態なのかも。
私は住みたい都市と、もっとお金持ちになりたいという気持ちがずっとあったのですが、既にあることが分かっていると、「欲しい」と思っても苦しくないんですよね。
言葉上では同じ「欲しい」だけど、既にあることが分かってるときには執着はなく、純粋にリクエストを出してるだけ。
そしてそもそも、そのリクエストも、自分(エゴ)が出しているというより、どこかから勝手に湧き出てきているものだから、エゴには叶える責任も義務もまったくなく、ただ肉体という器を通して表現がされていくだけなんだなあと。
住んでないんだけど、住んでる気分。
お金の計算はしてるんだけど、関係なくお金持ちの自分を信じられる。矛盾してて不思議だけど…
内面でそう(ある)だから、現象化ももちろんするという自信があって…面白いですね。
-
Mmゲスト
肝心なことを書くのを忘れてました。
ユーチューバーの方と会ったのは旅行先なんですが、その土地は私の在住してる場所じゃないし、そのユーチューバーの方が在住してる場所でもないんですよね。
特にユーチューバーの方の土地からは遠いところなので、ほんとにその場所で出会うなんて思ってもみなかったんです。
思考で考えると、どちらかが住んでいる土地で出会う確率が高いと感じますよね。
そのユーチューバーの方が私の住んでいる場所に来るか、逆に私がその方の土地に行くか。
だからエゴ的には「来てくれたらいいな」「その土地に行けたらいいな」という願望を持つと思うんだけど、実際には思考で考える確率なんて全く無視して叶えてくれるんですよね。
出会うタイミングなんて、その人に会わせるために私が動かされていた(肉体を通して流れが表現されている)としか思えなくって、だから万事がそういうことなんだと深く体感できました。
それを感じさせる為の出来事でもあったんだろうなって。
ちなみに帰宅後、ある芸能人が私が滞在していたホテルのエリアに来ていたらしいことが分かったんだけど、会わなかったんですよね。前にも、地元にまた別の芸能人が来てたらしいんだけど会わず。(二人ともファンじゃない)
エゴの思う確率的には、その人たちに出会う方が簡単そうなのに、そうじゃなく私が会いたい人に会わせるこの完璧さというか奥ゆかしさというか(まあその二人に会わせてくれても良かったんだけど笑)。
やっぱり確率とか難易度とか、そういうのはエゴが言っているだけでまったく関係ないし存在しないんだなと。
でも、そのエゴが言ってるとか言ってないとか、嘘とかほんととか、そういうこと一切合財がどうでもいいことだから、エゴが確率論を持ったままでもまったく問題ないんだなってことも分かってきました。
たぶん、難民になるパターンは、願望に執着というより、願望達成に邪魔そうなエゴへの重要度(エゴを消したい、みたいな)が高すぎてなってる気がします(自分がそうだったと今は思う)。
エゴはあってもなくても、ほんとにどうでもいいんだって分かってからは、自由に落ち込んで怒ってイライラして、逆に喜んだり過剰反応したりして、今を過ごせるようになりました。
あ、そういえば、キャンペーンでお皿も貰ったんだった。
現実がどうでもよくなると、現実からの貢ぎ物が増えてイージーモードになるのはほんとに面白いですね。
こまけえさんの書いてらした通りでした。
-
-
-
投稿者投稿