前回(「願望にだけ意図を適用させない犯人」)の続きです。…えっと、何でしたっけ。あ、そうそう、意図を邪魔してくるエゴの生態についてでした。
これも古参の読者の方には耳タコな内容なのですが、エゴというのは個人としてのアイデンティティー。自分が潜在スピ子という人間であるという認識です。ではその認識は何に基づいているのかと言えば、記憶です。記憶…こいつが我々の本来のパワーを収奪する諸悪の根源なのです。
潜在スピ子という名前、両親、友人関係、恋人の有無、社会的地位、貯金など、そうした記憶に基づいて我々は自身を定義しています。しかしその記憶の実体と言えば…面倒臭いので過去の記事をコピペさせて頂くと、
言語(言葉)を有しないプレデターの前で自己(過去)をアピールできますかという話でした。話が通じないわ、履歴書読めないわでどうにもなりません。ならば写真や映像はどうかと試みても、プレデターは理解できません。どんなに面影が残っていようと、そこに写っている幼児とあなたとの連続性を見出すことはできません。なぜならプレデターは時間という言葉(概念)を知らないからです。理解できるのは「今」この場にある景色だけなのです。
つまり自己(過去や記憶)なんてものは言葉(概念)と結びつけて初めて認知されるもので、それそのものに実体はないわけです。(「自己」なんて幻 ~サブリミナル効果、発動~)
と、ファンタジーなのです。
しかし我々はそのファンタジーをさも真理かのようにエゴ(自己)を作り上げ、その自己というファンタジーで以て自分を縛り、世界(=本来の自分)から分離させ、世界との間にネットを築くのです。そしてこのエゴというネットによって放出された意図というボールは内向きに跳ね返され、世界に向かって放物線を描かず、身の丈にあった(ネットサイズに適した)小さなボール(意図)だけがネットの網目をすり抜けて世界に届いていくわけなんです(※あくまでも視覚的なイメージです)
よく意図して忘れろなんて言われるのはエゴ(ネット)を作らないためですが、なかなか日常において願望(エゴ)は頭から引き離すことができないため、自己観察などでエゴが幻であると看破することなどが推奨されるわけです。(自己観察自体は何も意図を有効化させるためにやるというわけではないですが)。
しかし自己観察でエゴが幻だと看破してもそれを看破したと思っている意識があるわけです。これを私は「変質者のエゴ」(「変質者「エゴ」!!」)だなんて名付けていたようですが、ややこしいので「本来の私」という言葉に切り替えますが、この本来の私に気づくことは何も潜在スピ子というエゴを抹消することを意味するわけではありません。エゴ(潜在スピ子)が私の全てではなく、エゴすらも本来の私が作り出した世界の一部、よく言われているようにゲームのキャラだったと認識することです。
そうして様々な設定や制約があるゲーム内のキャラから、そのゲームをしているプレイヤーへと意識の次元が引き上がると、エゴと同化していた時とは湧いてくる願望の性質が変貌していくことになります。…続く。
やはり週末は時間が持てないのでキリの良いここで一旦切らせて頂きます。明日は必ず更新します。