この業界から遠ざかっていたにも拘らず、いざ記事を書いてみるとスピ知識満載でスラスラと筆が運ぶ自分を顧み、どれだけ廃人だったんだと思う今日この頃の○職さんです。先日ご報告をくださったさらさんが「スピリチュアル検定なんかあったら東大でも入れるんじゃあないかと思います」(【読者様からの嬉しいご報告】~女優視点から監督視点で認識変更~)と豪語していましたが、私の廃人全盛期の知識も早慶レベルにはあったのではないかと思われます。今でもマーチに入学できるくらいはありそうです。
前回(「別の領域」にあることを趣味にする)で別の領域に浸る効用についてお話をしましたが、タイトルの通り願望実現とは一旦離れて趣味的に取り組むことをオススメいたします。アファメーションなどをメインとしながら、寝る前のお遊戯で別の領域の探索に出かける的な感じで。
本来、願望を現実化させるためにメソッドなんてものは必須じゃないですからね。自分がそう思えばそうなるってだけで、簡単な話、どんな内面状態であろうが願望は叶うとの認識になれば叶いますし、戦隊ヒーローの変身のように何かトリガーが欲しければ鼻クソを食えば願望が叶うでも何でもいいんです。ただどうしても「自分は潜在スピ子」だというエゴ(力のない人間という設定)がそうしたぶっ飛んだ認識を門前払いするので、その邪魔をしてくるエゴを取り払うためや取り込んだりするためのメソッドがあるわけなんです。
過去にも言及しましたようにエゴとは記憶そのものです。そして記憶とは頭の中にだけしか存在しない妄想。しかし我々はその妄想を五感にブレンドした上で現実を眺め、制約のある洗剤スピ子の世界として作り上げてしまっているのです。
自己観察に何か堅苦しさを感じている方はそう難しく考える必要はありません。その記憶を五感にブレンドする作業、よりシンプルに言えば記憶のフィルター、記憶のメガネというイメージですが、その記憶のメガネを外しましょうというだけの話です。
そして裸眼の意識で現実を眺めてみれば、当然そこには記憶(個人の設定)が付着されていないわけですからただの景色となり、その記憶から発生する不足というものも存在しないことがわかります(よくよく考えればこれは今今メソッドのような)。はじめは自分と世界との一体感を意識するより、記憶に基づいた自分という存在の不確かさに焦点を当てる方が良いかも知れませんね。