朗報と言うべきか悲報というべきか。イチローのマリナーズへの復帰が決まったということで、メジャー、日本球界、日本ニート総連合会をも巻き込んだ熾烈な争奪戦に終止符が打たれました。一人の日本人としましてはイチローのキャリアがメジャーという最高峰の舞台で継続されることに喜びを得る一方、ニー連(略称)の幹部という立場を鑑みれば、これほどの人材を招聘できなかったことに忸怩たる思いが拭えません。イチローがドラマ「古畑任三郎」で見せた、あの強烈な出落ち感と妙に角ばった演技は他業種への色気を疑わせるものでしたが、彼のユンケルと野球への愛はどうやら本物だったようです。ご活躍をお祈りしています。
ダルビッシュに続き44歳のイチローまでも獲得に失敗した今回の反省を生かし、次なるターゲットを小室圭さんに絞って、ニー連の組織強化を図っていきたいと思います。
さて、前回の最後でちょっとしたトラップを仕掛けたのですが、おそらく大多数の読者も「ワイの人」と同様に、まんまとそれにひっかかってしまったのではないでしょうか。なぜなら、当ブログの訪問者であるということは、何らかの不足を日常に抱えていることを意味するからです(全ての人ではありませんが)。
不足というものは願望を意識した時にのみ顕在化してくると思いがちですが、実はガン細胞のように拡散し、思考や行動、生活の表面に付着することで、日常そのものに薄く覆い被さってくるのです。そのため、本来はニュートラルであるはずの「今」(デフォルトの意識)が不足に占拠され、願望が叶っていないという立ち位置を日常的(無意識)に受け入れてしまうのです。日常とはすなわち、在り方であります。
ですので前回、私が綴った「(願望が叶う)プロセスにエゴの障壁を挟むか挟まないかの違いがあるだけです」という文章を目にした時に、読者の皆さまは反射的に「エゴをどうにかせな!」という思考を立ち上らせたのです(私の勝手な推測ですが)。
おそらくマゾでもない限り、好き好んで不足の世界に浸りたいなんて人はいないかと思います。しかし、何の違和感も覚えずにそれを無意識に受容しているという状況は、不足で在ることに消極的な是認を与えているのと同義であります。そこから抜け出すためには、やはり気付くしかありません。
「〇職はん、前回と言ってることが違うやないか。ワイが思考に気付くやでー、って帰ろうとしたら、それは叶っていない立ち位置でうんたらかんたらって横やりを入れてこんかったか?」
はい、入れました。ただ、前回と絡めた上で、上記の「気付く」という言葉の真意を申し上げますと、
何の躊躇もなくメソッドに取り組もうとしている、その不足の前提を無意識に容認している「在り方」に気付いてください
ということであります。
噴出してくる細かな思考よりも、その大元である在り方(無意識の思考)のバックに大きく回り込んで頂きたいのです。
続きます。