昼は球児たちが選抜高校野球で熱戦を繰り広げる中、夜はムキムキな大人たちが巨大なアスレチック場で笑いあり涙ありのスポーツ・エンターテインメントを開催していました。そうです。『SASUKE』です。先日、テレビで放映されていましたので、私も何年かぶりにじっくりと拝見させてもらいました。知らない間にずいぶんと上位陣のメンツも変わり、私の記憶に唯一ひっかかる長野誠氏も既に引退し、応援のみに精を出していました。
その長野氏が第17回大会でファイナルステージの綱を登り切り完全制覇を果たした後、インタビュアーから「(頂上には)何がありましたか?」と聞かれ、「ここには本当は何もないです」と言い切り、SASUKEオールスターズ(SASUKEで活躍した一般人の総称)のみんなと一緒にいれるだけで楽しいんだと飾り気なく吐露した心情には、五輪メダリストの言葉を凌ぐほどの深みがありました。
しかし今回、そんなSASUKEオールスターズの筆頭格とも言うべき、山田勝己氏の姿がなかったことは残念という他ありません。彼の引退については側聞していましたので、応援席から妙に黒光りした存在感を発揮しているだろうと目を凝らしていたのですが、「水曜日のダウンタウン」の収録と被っていたせいか、最後まで画面が「ミスターSASUKE」を捉えることはありませんでした。
Wikipediaには兵庫出身の山田氏のニックネームについてミスターSASUKE以外にも、「浪速のターミネーター」「浪速のブラックタイガー」の2つが紹介されていたのですが、
えっと……イタズラかな?
誰かお知り合いの方がいましたら、山田氏に一刻も早く記事を修正するようご連絡を差し上げてください。
では、本編を始めます。今回は恒例のお悩み相談(質問も含む)です。
この度、凡さんさんからご質問を頂きました。ありがとうございます。さっそく以下にコメント欄から文面を拝借したいと思います。
最近こちらを知り読んでいて、後少しで何か掴めそうな気がしています。
質問菜のですが、想像と妄想の違いってなんでしょうか?妄想でもそれは実現するものてすか?(原文ママ)
このご質問に関しては、私のネタリストにも同趣のものが含まれていましたので、記事にてご返答させて頂く次第となりました。
まず、「想像と妄想の違いってなんでしょうか?」についてですが、スピリチュアル的な見地から申し上げますと、この2つの言葉に明確な区別はないかと思われます。いずれにおいても、頭の中の思考であることには変わりありません。
しかし、凡さんさん自身が「妄想でもそれは実現するものてすか?」と仰られているように、「根拠のない、現実からかけ離れた推量」を「妄想(実現困難)」と無意識に定義付け、「想像(実現可能)」と区別しようとする何かがあります。それがエゴ(記憶、習慣)なわけです。
では、こういった定義付けはいつ行われるのでしょうか? 何かを望み、それを思い浮かべて幸せを感じている時点では、そこに「これは妄想だ(泣)」なんて思考は介在していないと思います。「『でも』が世界を作ってる!!」の記事でも書いたのですが、内面で何かを描く行為が終わり、意識が現実というものに立ち返った時に初めてそういった観念やレッテルが貼られるのです。
現実に立ち返るとは言っても、そもそも人間は普段から想念の中に生きています。現実というただの景色にあれこれと意味付け(想念)をして日常を送っているわけです。その中で、現実的な不足の思考には妄想というレッテルは貼らず、なぜか理想や充足にのみ妄想という定義付けをしてしまうのです。
人はエゴによってそのような振り分けを無意識に行い、真実と振り分けた方がそのまま世界に投影されているというだけなのです。いつもの「自分=世界」であります。ですので、そういった無意識の作業に気付き、意識的に充足を真実に振り分けていけば、自ずと世界もそれに応えてくれるのです。
よって、「妄想でもそれは実現するものてすか?」というご質問に対する回答は、周りから妄想と嘲笑されるようなことでも、妄想という後付けの観念を取っ払ってしまえば、それは日常の思考となんら変わらないものになりますので、実現します。
妄想-妄想=日常
凡さんさん、何かご参考になれば幸いでございます。