願望実現「Mr.長嶋(感覚)」編

本来の「在り方」を彫り出せ!! ~漱石と仏教にこじつける~

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夏目漱石本日は朗報と悲報、2つがございます。

まずは朗報からです。私は相変わらず〇職です。昨日は投稿がなかったため、読者の皆さまにおかれましては私が新しく職に就いて、むせび泣きながら研修を受けているのではとご心配されたことかと存じます。大丈夫です。私は健康な〇職です。

次に悲報です。朗報でもお伝えの通り、とうとう昨日、2月4日から継続していました「1日1回は投稿」という荒行に終止符が打たれました。〇職なりの社会奉仕でしたが、案の定、2カ月にも満たず頓挫してしまいました。数名の〇職ファンの方々並びに一般の読者さま、ここにお詫び申し上げます。

これも一重に私の努力不足ではありますが、外的な要因がないと言えば嘘になります。最近はニート総連合会の活動や様々な事情からブログ執筆に充てる時間を長く持てなくり、急いで書く余り、私自身、記事の出来には不本意なものがありました。このような現状を鑑みまして遺憾ではありますが、より質の高い記事を皆さまに届けるため、1日1記事というブログ憲法の1条を、努力目標という位置づけに改正したいと思います。ただ、それでも2日に1度は最低限のノルマとして記事を投稿していく所存ですので、何卒ご理解頂きますようお願い申し上げます。

さて、皆さまはご存じの通り、当サイトは願望実現ブログとは別に教養ブログという顔も持ち合わせていますので、今回は少し文学作品を導入として、お洒落に話を進めていきたいと思います。

明治の文豪、夏目漱石の小説に『夢十夜』という作品があります。その「第六夜」で、鎌倉時代の仏師、運慶が仁王像を彫っているところを現代(明治)の人々が見物しているという寓話が描かれているのですが、主人公の「自分」が運慶の手際に感心していると、傍にいた若い男が、


「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中にっているのを、の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。

ーー(青空文庫)

と含蓄のある言葉を返します。

この物語自体は現代(明治)への風刺で締めくくられているのですが(個人的な解釈)、この若い男に語らせた造仏の精神には仏教における如来蔵を思わせるものがあります。

如来蔵とは全ての人が有している仏の本質であります。それは全ての人たちが悟りに達することができるということを意味しています。しかし、ほとんどの人は煩悩の付着によって如来像が隠れてしまい、悟りを自覚できずにいます。つまり、デフォルトは悟っているのです。煩悩(思考)によってその発露が妨げられているだけであって、生まれた瞬間は皆、仏(覚者)だったというわけです。

それを踏まえ、先述の「夢十夜」のくだりを補足してみます。

あの通りの眉や鼻(仏=悟り)が木(煩悩=思考)の中にっているのを、の力で掘り出すまでだ。

悟るのではなく元から悟っているのだから、それを覆い隠している煩悩を彫り出して本来の在り方に戻りましょうということです。これは「思考を止めろ」であったり「今にあれ」といった、現代におけるスピリチュアルの教えと符合しています。

さらに日本の中世の天台宗で発展した本学思想では、「煩悩菩提(=悟り)」「生死(=迷い)即涅槃(=悟りの境地)」という立場を取り、何を考えようが何をしようが、この目に見えている世界の全てが仏の在り様を表していると説いています(=仏性)。これも自愛や完璧認定と酷似しております。

つまり、何が言いたいかと申しますと、昔の人も同じこと言ってんだから、もっと

スピリチュアル(自分)を信用してみませんか?

ってことです。

山に登ろうとしてはすぐに引き返して登山道具の確認をしてしまう方、もっと自分の脚力を信用してみてはいかがでしょうか。私から見ればその太もも、元スピードスケートの長野五輪銅メダリスト、岡崎朋美さんの全盛期を彷彿とさせるものがあるんですから。

※仏教についての記述は、文庫本の上っ面を舐めただけの浅い知識で書いております。間違いの指摘や、何か気になる点がございましたら、瀬戸内寂聴さんか織田無道さんに問い合わせてください。

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