過去にも言及したかもですが、「なる」というのは個人という一人の人間の現象ではなく、その世界の現象(叶った状況)に自分(認識)がなるってことなんですね。というのも元々、自分(エゴちゃん)はいないわけですから、エゴちゃんが個別の何かになるわけじゃないんです。
簡単に言えば、潜在スピ子さんに好きな異性(今にある男)がいたとして、その人と付き合いたいとしますよね。で、ここで「なる」を適用しますと、本当のスピ子さん(自分=世界)はこの個人(エゴ)のスピ子さんでもあり、ある男さんでもあり、その関係性であり、それを取り巻く全てが本当のスピ子さんになるわけなんです。
なので、意図と同じなんですね。ただ「なる」は言葉の響きから、どうしてもエゴが変身するという感覚だと思いますが、この世界全体がなっていることを意識する方がいいかもです。エゴの視点ではなく、もっと大きな視点で転換してみる。あなたという個人(エゴ)でさえも、認識(自分=世界)というジオラマの中での1つのパーツでしかないわけですから。
「そんなこと言っても、続かない…」という人は、目の前の現実は動かせないことを知ってみてはいかがでしょう? 現実ってのは全てが条件反射の連続です。日が当たれば暑いと思うし、赤信号になれば往来の人の足は止まります。こんな感じで勝手に動いているだけなんで、どうしようもないですよね? それに反応するあなたの内面も結局は反射的な行為ですから、ネガティブになろうが何しようが、本来あなたのせいではないんです。
スピ子さん「そうするともう現実はどうしようもないじゃない?」
○職さん「そう思うのも反応ですよね?」
スピ子さん「だったら私はただの反応なの?」
○職さん「反応という受動的なものが偉大なあなたであるはずがないじゃないですか」
スピ子さん「じゃあなんなのよ?」
○職さん「そう思う心が現れたその空間というか土台というか。まあ、簡単に言えば現実も含めた認識している全てですよ」
ちょっとこのままでは認識の変更っぽい話になっていくんで、「なる」(エゴ的見地)に戻りますが、結局は現実には手出しできないんですから、内側(内面)に籠るしかないわけです。厳密には普段から不足という内面に籠っているわけですが、現実が干渉不能と知れば、逆に現実をとっかかりに不足を生み出すこともなくないですか? 諦めという境地で。ならないなら、すみません。
要は現実の景色は好き勝手に空回りさせておいて、自分は理想の内面の中を生きていればいいわけです。現実は結局、内面構成のトリガーに過ぎず、それ自体に力はありません。そもそも普段からほとんどの人は現実を材料に作り上げた不足のファンタジー(内面)の中でしか生きてないんです。しかもそのファンタジーを強烈に「在る」ものとしながら。最初から生きていたのは現実ではなく、ファンタジーの中だったんです。そのファンタジーの中身を充足に変えることが、「なる」と言えるかもしれません。