最近、1つの記事を書くのに6時間以上を費やすことがザラになってきました。記事を書き終えてふと時計に目をやりますと、あまりに世の中が未来へと進んでいたことに呆然とすることが多々あります。出来上がった記事の尺を考えれば、あまりに低コスパな作業と言わざるを得ません。
ブログなんてものは本来、風呂上がりのOLがヨーグルトを片手に、犬も食わないようなその日の喜怒哀楽を、やけに行間の広い文章で綴るイタい日記のことを指すかと思うのですが、私の場合はブログの特性上そうは問屋が卸しません。
なぜなら、私は当ブログを読者をユートピアへ誘う現代の「法華経」と位置付けていますので、一字一句が皆さまの人生を左右すると思えば、闇夜に針の穴を通すような細心の注意が求められるのです。
というのは〇職ジョークですが、ただ、先月末から急にアクセス数が10倍に跳ね上がり、コメント欄などを通して読者さまの息吹を感じてからは、寝転びながらの執筆姿勢を自戒し、真摯にブログに向き合おうとした結果が、6時間超というプロ野球2試合分の長さになってしまっているわけでございます。今回も書いては消してを繰り返しているうちに半ば愚痴のようなことを吐いてしまいましたが、時計をチラ見すれば既に3時間が経過している……ヤベッ、日清のどん兵衛を食ってる場合じゃねぇ!!
前回、レスリングのパ〇ハラ栄和人監督の教えの如く「不足の前提を無意識に容認している「在り方」のバックを取れ!」と熱弁しましたが、この「在り方」が諸悪の根源であり、また全能のメシアでもあります。
ここでまた、読者の方々も辟易されているかと思いますが、また例の標語をここに叩き込みたいと思います。山に登ろうが、海で泳ごうが、部屋でエアギターを奏でようが、これが宇宙に横たわる真理(たぶん)ですので、何度でも申し上げます。
「自分(在り方)=世界」
です。
今に自分の在り方がダイレクトに世界に投影されているわけですから、理想の世界が見たいのであれば、そのように自身の在り方を変えてしまえばいいというだけです。で、皆さんが求めている在り方とは、当然、願望が叶っている在り方だろうと思います。叶っているとはつまり、何かが欲しい(叶っていない)という在り方ではなく、既にそれを持っている、それを欲しいと思わない(叶っている)という在り方なわけです。
ですので、「それを欲しいとは思わない在り方」で全ては完結しているはずなのに(既に叶っているのに)、そこに「それが欲しいという(不足の)思考」が湧いてくること自体、大きな矛盾を孕んでいると思いませんか? さらに、それに対して何のためらいもなくメソッドで対処しようとする、その本末転倒ぶりにも笑えませんか?
既に叶っているのなら、過去の習慣として不足が出てきても、
「あれ、もう叶ってんのにお前(不足)が出てくんのっておかしくない? ぷぷぷ」
で終了です。
ここでメソッド(対処)をするなんていう選択肢は出てきません。なぜなら、メソッドは叶っていないという立ち位置からじゃないと出てこない発想だからです。
以上、
メソッド不要派の主張でした。
メソッドに疲弊された方は、男塾「直進行軍」を思わせる上記のようなアプローチもありますので、ぜひ、ご参考にしてください。