「自分=世界」

「叶っていない」を「叶っている」と認定できちゃうわけ

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メールそれにしてもメールマガジンというヤツはどうにかなりませんかね。どこかのサイトで登録や買い物などをした時の配信同意のチェックの外し忘れが度重なって1日に数十件という無用なメールが私のメールボックスに届いてしまいます。配信停止の手続きをすれば済むことなのでしょうが、もはやそれすらも面倒くさくて、ある程度メールが溜まったところで一括削除しております。先日などはアメブロから『テラハ大志、CHIKAKOとの婚約報告』というニュースが届きました。実にめでたい話題で……って、やかましわ!! 一体誰なんですか、彼らは。せめてもっとメジャーな人物の話題なら何とか私も心の整理がつくのですが。

ということで、前回の続きであります。前回は最後にみるきーさんの言葉をお借りして「まだエゴさん顔を出すので、完全に手放し出来るときが来るのは(恋愛成就)はもう少し先になりそうだなーと思」っている現状の内面をそのまま叶った自分の内面であると認定すればいいということを申し上げました。

上記のことをもう少し分解して解説していこうと思うのですが、やや私個人の感覚的な部分が多分に含まれることになるので、チンプンカンプン注意報を発令しておきます。

認定という作業を行っているということは、カッコ内の思考を対象化しているということであります。そうですよね? 対象があるからこそ認定ができるわけですから。つまり、自分(在り方)と同化していた思考を対象化(客観視)することで在り方からをそれを削ぎ取り、ただの実体のない観念として捉え直しているということになります。

そうすることで思考という一見、自分とイコールだと思っていたものが、道端に転がっている吸い殻と同じようなただそこに在るだけのものということになり、「叶っていない」という思考自体が在り方(「自分=世界」)と離れることで無力(ニュートラル)化されるのです。


つまり、その不足と感じていた思考すらも風や雨のようにただの景色の一部となり、その「叶っていない」という思考も含めた景色まるごとを矛盾なく「叶っている」と認定することができるのです。

思考は謂わば脳内に流れるBGMみたいなものですから、同化しない限りそれ自体に何の力も付与されていません。例えば「coco壱」のカレーを食べに行こうと街を歩いていた時に、停車していた車の中から「好きなカレーも食えないこんな世の中じゃ、ポイズン♪」と流れてきても、そのBGMとカレーを食べに行くという意図(カレーを味わうという世界の認定)に何の矛盾も生じないですよね。なぜならそのBGMが自分の在り方ではなく、ただの音だと知っているからです。思考も本来はそれと同じ構図なのです。

つまり不足の思考を対象化することで、それをも取り込む形で、その不足の内容とは全く矛盾する充足の認定を与えることができるということなのです。

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