私、カレーうどんが大の好物でして、自分でもなぜここまでカレーうどんにホの字であるのかと探ってみますと、ある出来事に思い当たりました。あれは小学校の卒業式の帰り、母親がお祝いにと私を近所の定食屋に連れて行った時のことです。その定食屋は壁にメニュー札が貼り付けてある昔馴染みの店内で、私は母親とテーブルに腰を下ろしメニューを眺めました。これといって気が進むものもなく、私は何気なく目についたカレーうどんを頼んでみることにしました。当時の私はまだカレーうどんに開眼しておらず、その選択はただの気まぐれでした。
待つこと数分、出てきたカレーうどんを見て私は思わず「水っぽいな…」という印象を抱きました。割り箸を割き、麺をすくってみますと「あれ、軽い。食べやすい」。ズルズルと音を立てて啜ります。「うまい。何だこれは? カレーなのにカレーじゃない。では何なのかと問われれば、やはり、まごうことなきカレー」。思えばそれが外食における私の初カレーうどん体験でした。私はそれまで家のカレーうどんしか食したことがなく、その母親が作るカレーうどんには出汁が入っていませんでした。故に麺をすくえばカレーがごっそりと付着してきますので、
箸が重いことこの上ない
家のカレーうどんとは似て非なる「出汁入りカレーうどん」の美味さ、食べやすさに私は感動し、そのグルメ体験が現在における私のカレーうどん贔屓を形成しているのでした。しかし、書いていて気づいたのですが、かなりどうでもいい話でしたね。
さて、前回のお悩み相談室(~時間は流れていない?~)の記事について、読者のバンビさんからその中身について以下のようなご質問がありました。
今見える景色は過去って言う考え方が一番エゴ的には納得できるのですが、
「今」決めれば「今」その瞬間からそのような世界に移行する、と言うのはやっぱり理解できない、、
これって、なった後に起こったことは全てなったから起きたこと、なった後にトイレに行きたくなったのも同僚が髪を切ってきたのも、なったからだと言う考え方ですよね。
この考え方と、見える現実は過去って言う考え方では矛盾が生じていると思うのですが、悟ってしまうとその辺も矛盾なくどっちも正解と思えるのでしょうか?
私自身も当初はこの部分に関して読者の方々に混乱を与えないようにと筆を進めていたのですが、記事中に「今」や「過去」などの時間に関するワードが頻出してしまったため、返ってそれが新たな混乱を招くのではとの懸念から削った次第でありました。
ただ、やはりバンビさんの他にも疑問に思われている読者の方がいらっしゃることも想定され、またこの部分にのみ言及を絞れば特に文脈上の混乱も生まれないかと判断し、今回はその部分に関して補足したいと思います。
その前に混乱を避けるために、今回の記事における今の表記について説明しておきます。単純に今の現実という意味で使用する場合には「現在」とし、思考と関連付けずニュートラルに見た現実を「今」と表記します。
前回もお話ししたように、我々の体験する世界は常に「現在」であります。そして、「現在」目の前に展開している現実は時間軸で言うところの過去の内面によって作られたものです。ここで誤解して頂きたくないのは、現実は「過去」ではなく「過去に作られたもの」であるということです。過去に作られた現実を「現在」五感で受け取っているのです。
そして、その現実は既製品で調理不可能だと申し上げました。例えば、Bさんに告白したAさんが振られたとしましょう。この振られたという現実が過去に作られたもので、これに向かっていくらアプローチをしたところでどうしようもありません。ただ、この現実というものはそれ以上でもそれ以下でもなく、ただの情景であります。その情景から未来や過去を引っ張り出し、様々な関連付けを行うのがエゴ(自己=記憶や観念)です。Aさんの場合でいえば「この間、ママチャリで立ち漕ぎをしていたところを見られたから振られたんだわ(記憶=過去)。再アタックをして成功した例はほとんどないって聞くし(観念=未来)。もうダメ私、南無~」といった感じになります。
このありもしない過去や未来を飛び回るエゴを看破し、現実に何の関連付けもせず、ありままニュートラルに見ることが「今」にあるということです。「今」にあるとは関連付けをしないということですから、すなわちそこにエゴ(自己)は発生しません。それは「自分=世界」の在り方でもあり、そうなればAさんの振られたという現実も世界(=Aさん)に展開された一つの景色であり、その景色に紐づけされた過去や未来はエゴ(自己)による虚構だと見抜けるのです。つまり、現実とは過去や未来と連関しない一つのコマ(今)であると認識できるのです。
「今」にあることで現実(現在)が独立したコマの連続であると理解できれば、「現実の因果関係」の縛りから解放されるわけですから、そこに自由な認定が付与できるのです。これが「今」決める(意図)ということです。
また、決めた後に不足の現実に直面しても、「今」にあればそこにそれ以上の意味を見出さず(過去や未来に関連付けをせず)、意図がブれません(今今メソッド)。むしろ、Aさんでいえば振られたという現実さえも結ばれるまでの過程だと、意図したから起きた現象だと認定できるのです(なる)。
と、補足と言いながら、本編よりも複雑怪奇になってしまったのですが伝わりますかね? 要は、「現実は過去の産物だが、その現実自体には色がなく、それに対して「今」好きな色を塗れるんですよ」という簡単なものでした。何だかこの一文だけでよかった気もしますが……。