昨今は人権や権利などがより声高に叫ばれるご時勢となっていますが、私が小坊の頃にも道徳の時間で人権や差別を取り扱うことがありました。ある日の道徳の時間で、教師が「日常にはどのような差別が潜んでいるか?」と子供たちに投げかけ、それについて子供たちが思い思いに気付いたことを発言していくという授業があったのですが、そこでT君という児童の発言が思わぬ波紋を呼ぶことになりました。「志村けんは『変なおじさん』を差別してからかっている」。志村けんは当時、コントで演じた『変なおじさん』で茶の間の人気を博し、「変なおじさんダンス」は誰もが踊れる国民的舞踊となっていました。そこに目を付け鋭く切り込んだ社会派T君の発言に他の児童らも「そうだそうだ、志村けんは悪い人間だ」と激しく同調し出し、挙句には「志村けんに抗議の手紙を送ろう」という事態にまで発展してしまいました。
教師の方も自分が焚きつけてしまった手前、その児童らから生まれた政治闘争をあからさまには制止できず、私もガチで志村けんに手紙を書く羽目になってしまいました。後にも先にも私が芸能人に向けて手紙を書いたのはこの一度きりです。児童らの抗議文は一旦教師が責任をもって預かることとなったのですが、さすがにテレビ局等へは実際に送ってはいなかったかと思われます。これはまさに現代にも繋がる炎上の構図そのものであります。クワバラクワバラ。
さて、お問い合わせからのご相談を全て片付けたと思ったら、ルールの間隙を付いてコメント欄から長文のご質問を頂きました。しかしこれが他の読者の方にも共有するに値する内容だったのでここに記事として取り上げることに致しました。コメ主はアツさんです。
初めまして。アツと申します。
一度質問したいと思っていたことがありまして。何度書いても途中でわけが分からず見送っていました。久しぶりに覗きましたら、質疑応答は無くなるとのことでしたが、他の皆様の疑問と重なるところがありましたら、全体としてお答え頂けたら幸いです。自分=世界
こまけぇさんのブログを拝見しても、自分はこの世界の神のような存在なんだ。それはきっと本当だ。そんな思いはあります。
自分=世界であるのに、
神さまや宇宙にお願いしよう。
そういった記事を目にすると、自分=世界なのに、なぜわざわざ他に神を作ってお願いするの?
そしてなぜその方が叶いやすいと言う人がいるの?と疑問でした。
自分=世界なら、わざわざ神に丸投げしてやってもらわなくたって、自分で神として脚本書いて、今日はこれ食べよう的なノリで、あの人と付き合おう。あの人から声かけてもらってお付き合いが始まってって、、、仕事は自分から動くの面倒だから、急に知り合いからワクワクする仕事の話舞い込んできてーって脚本書けばいいんじゃないの?って。
意図するだけで過程はお任せしてください。とか、相手から来て欲しい。周りが動いて欲しいはエゴの発想だから叶うか分かりません。と言うコメントを見て、謎です。過程を考えてその通りにしたいは確かにエゴの発想なのかもしれませんが、こまけぇさんはエゴが世界を創っていると言っていて、だったら私が神のように細かい設定決めてその通りでもいいのでは?と思いました。
それこそ子供の頃の人形のおままごとのように。全て自作自演で。
設定決めて、相手役には私が望む通りの好きなセリフ言わせ、望んだように主人公である私はコマを進めた方がエゴは満足なんだけどな。と。笑そのことを考えていて、何度も私=世界の記事を読み、私が思ったのは、神さえも私が創ったとゆうことでしょうか?
神とゆう存在がいたら、お任せしたら、悪いようにはしないだろう。的なことかなと。
宇宙とか言う人は宇宙とゆうとなんとなく、すごい謎パワーがありそうだから、その宇宙にお任せしたらすんごい素晴らしいこと起こるでしょ!
某掲示板で別の領域と言う言葉がありますが、そこが唯一真実で、その真実に辿り着ければ、何でも叶う。そんな風に思っていましたが、そんな領域も、たった1つの真実でも何でもなく、それさえもそんな領域あって、そこにいれば何でも叶いそうだよね。を創造したと言うことでしょうか?
どこまでも自作自演。
自分=世界、自分が神的存在が信じられず、75億の1人として生きてくなら、別で神を作りお願いしちゃった方が楽な道ということかなと。すみません、もう一つ。
思い通りになってるんですよ。常に叶っているんですよ。とは耳にタコですが。
こないだ、思い通りにならないじゃん!と心の中で呟いてる自分に気づきまして、、、この呟きの通り思い通りにならないを叶えてる。私の思い叶えてるってことかと思いました。
でも、やっぱり子供の頃に体験した嫌なことは、わざわざこんな辛いこと体験させないだろ!
私(エゴ)=世界 だとしたら
私が創ったとは思えない!と思いました。そのとき、私=エゴではない何かが操っていて、私=エゴはわけもわからず進められている操り人形としか思えないと思いました。
悲しくて辛い気持ちを持っていた子供時代の脚本を書いたやつが私=世界 の私とゆうことだと思うのですが。。。
私=エゴはいつも起こることにリアクションだけして、こんなの嫌だー変えたいーと言ってるだけ。
結局 私=世界 と思うようにし、望む意図を何年も意図し続けているけど叶えたいこと一個も叶わないのは、体感として腑に落ちてないので、神を演じているエゴになっているとゆうことでしょうか?意図しても何も叶わないので、意図するのが最近は怖いです。
やっぱり叶わないの思考回路をその度に太くしている気がしてなりません。
こまけぇさんのブログでやっぱり自愛は最強近道かと、再開しましたが、叶えるためにやってるからか疲れ果てました。
もうお手上げ状態です。
かと言って丸投げもできない。
諦められない。諦めるのも諦めたら叶うかもねの期待と共にです。自愛的にはそれでもいいんだよ。。。ですね。笑
本当にお手上げです。長くなってすみません。
もう送らないつもりなので、最初で最後だから悔いのないように書き込みました。腑に落ちてませんが(腑に落ちなきゃ叶わないって思ってるんですかね、、、苦笑)ブログにはいつも励まされ元気もらってます。
日頃のお礼をここで失礼します。
いつもありがとうございます。
どなた様かとシェアできる内容でしたら幸いです。
というご質問であります。とりあえず順に上から質問個所に私なりの考えを述べていきたいと思います。
自分=世界であるのに、
神さまや宇宙にお願いしよう。
そういった記事を目にすると、自分=世界なのに、なぜわざわざ他に神を作ってお願いするの?
そしてなぜその方が叶いやすいと言う人がいるの?と疑問でした
要は「自分=世界」の中で自分なりの関連付け(ルール)を確立して、それを実行しているからだと思われます。関連付けとは不足にも充足にも作用しますので、使い方次第ということです。極端な話、鼻クソを食えば願いは叶うでもいいのですが、鼻クソはエゴにとっては神秘性がないのでルールとしては採用しづらいため、神様というありがたそうな概念を拝借しているわけです。
だったら私が神のように細かい設定決めてその通りでもいいのでは?と思いました。
もちろん細かい設定(過程)を決めても結構です。ただ細かいが故にそこから少しでも現実が逸れているように見えると、エゴがやっぱり叶わないと嘆き、その叶わないを採用しがちになります。つまり、設定(過程)も願望に昇格してしまい、無用な不足の温床となってしまうのです。よほど「自分=世界」への体感や信頼がなければ、結果だけを決めた方が安心楽ちんですよということです。
私が思ったのは、神さえも私が創ったとゆうことでしょうか?
(略)
某掲示板で別の領域と言う言葉がありますが、そこが唯一真実で、その真実に辿り着ければ、何でも叶う。そんな風に思っていましたが、そんな領域も、たった1つの真実でも何でもなく、それさえもそんな領域あって、そこにいれば何でも叶いそうだよね。を創造したと言うことでしょうか?
どこまでも自作自演。
かなり素晴らしい気付きです。そういうことであります。初めの質問と被るのですが、「自分=世界」では自分が神みたいなものですが、万能過ぎるために別の神や別の領域といったルール自体も創れちゃうのです。エゴも神も別の領域も、自分という意識がそれを認識しているのです。別の領域に関してはエゴから脱しているのでそこにいれば世界との一体感が出てきます。ある意味その一体感を感じることをトリガーとして願望は叶うと関連付けていると言えますね。
結局 私=世界 と思うようにし、望む意図を何年も意図し続けているけど叶えたいこと一個も叶わないのは、体感として腑に落ちてないので、神を演じているエゴになっているとゆうことでしょうか?
私は私の世界(内面)しか見れないので、叶わない理由を明確に指摘することはできません。ですので推測になるのですが、少し意図に拘り過ぎて、意図した後に「まだかな、まだかな、学研のおばちゃんまだかな?」と現実を監視していませんか? もしそうであるならば、お分かりの通りこれは不足の在り方です。叶っていないという立ち位置を固持しているので、無意識に意図のその後を追ってしまうわけです。
無意識とはつまり、在り方です。その無意識(子供時代の脚本を書いたやつ)に気付くことで根本の在り方をしっかりと把握でき、それが明確になれば内面と現実が連環していることがわかります。この根本の在り方を掴めず、表面的な思考を自身の在り方だと錯覚したままでは、いつまで経っても内面と世界には乖離があるという誤解を引きずり、「自分=世界」への信頼が築けません。不足にしろ充足にしろ、その在り方は忠実に世界へ反映しています。内面を覆っている無意識の不足(在り方)にハッと気づくのです。根本の在り方を確認(実感)できれば後はその在り方を好きに選択するだけです。
意図しても何も叶わないので、意図するのが最近は怖いです。
やっぱり叶わないの思考回路をその度に太くしている気がしてなりません。
こまけぇさんのブログでやっぱり自愛は最強近道かと、再開しましたが、叶えるためにやってるからか疲れ果てました。
もうお手上げ状態です。
かと言って丸投げもできない。
諦められない。諦めるのも諦めたら叶うかもねの期待と共にです。自愛的にはそれでもいいんだよ。。。ですね。笑
本当にお手上げです。
基本的に日常で意図したことの95%は叶っているはずですよ。寝ることも意図ですから。まあ、意図なんて気付けば出ているものですから、意識する必要もありません。お手上げでも結構です。お手上げそのものが自愛です。それか、願望は一旦置いておいて「自分=世界」の体感(認識の変更)を優先して「今にある」ことを心がける道もあります。なんだかんだ書き連ねましたが、結局はご自身で試行錯誤をして乗り越えていく他ありません。無論スピ的アプローチを全て放り投げてどうにでもなれ的(潜ちゃんにおまかせ)なものでもOKですが。そういったところで今回はお開きです(引用も含めて過去最大の文字数となっちゃったぜ)。