願望実現「野村ID(理論)」編

「自分」であるという許容 ~師弟の絆~

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師弟関係今さらですが、「お問い合わせフォーム」を設置いたしました。優良サイトの条件として「お問い合わせ」は必須だという風の噂を耳にしまして、慌てて設置した次第の、どうも優良ニートです。

もちろん形ばかりではなく、万一読者の方々からのお問い合わせがあれば、なるべくお応えできるよう努めてまいります。ただ一つ注意点がございまして、当ブログは願望実現を主題にしているのですが、私の書いたことを経典のように忠実に頭で理解するのではなく、漠然と記事から受ける印象を感覚的に捉え、一つの参考例として流し読み程度に活用していただければと思います。教える、教えられる、そんな師弟のような構図は葬っちゃってください。願望を叶えられるのは私ではく、あくまで読者の方々ご自身です。

 

そういう私もその昔、師弟関係を結びそうになったことがありました。あれは小学5,6年の頃だったかと記憶しています。

ある日、ふとクラスメートのA君にB君が「師匠」と呼び始めたことに気が付きました。それもふざけた風ではなく、子が母を「お母さん」と呼ぶようにごく自然に「師匠」と呼んでいるのです。ダブりが発生する高校では、クラスに人生の先輩らしき人間がいるケースも考えられますが、もう一度確認しますと、A、B両君は小学生かつ同級生であります。

その後よくよく観察してみると、どうやらA君はC君、D君というもう2人の弟子を抱えており、弟子の筆頭格がB君という師弟関係の全貌が見えてきました。A君がB君に指示を出し、それを受けてB君がC君、D君に指示をだすという構図です。この命令系統をも確立された師弟の契りを彼らがいつ交わしたのか私の知るところではなかったのですが、教室ではすでにそれを公認しているようで、B君以下が何か事を起こせば、A君にクレームが入るという、見事な小社会が出来上がっておりました。

別のある日のことです。昼休みの時間に鉄砲玉のC君とD君が何やら言い争いを始めました。それが掴み合いに発展し、もう少しで手が飛び交うという寸前で私が慌てて仲裁に入り、その間に誰かが姿のないA君を呼びに行き、そして駆け付けたA君が師匠の威厳で2人を諭し始めました。誰もが争いの収束を確信し、ほっと胸をなで下ろしたその瞬間、

「やかましわい!!」

と、誰も予期しなかった怒声が教室に轟きました。声の主がC君、D君どちらであったかは失念しましたが、2人の激情が突如として一致点を見出し、師であるA君に向けられているのがわかりました。弟子が師を越えた瞬間でした。そして、その時がやってきます。その時、歴史が動いた!

当時、私はA君と同じ班で、その日の放課後に一緒に清掃活動をしていました。そしてふと、A君が掃いている箒の手を止め、私の方へ振り返り、こう言ったのです。

「俺の、弟子にならへんか?」

私は怒涛のようにこみ上げてくる笑いをこらえるのに必死でした。彼曰く、私が喧嘩の仲裁に入ったことを高く評価し、この打診を決定したとのことでした。待遇としてはB君と同格、望めばB君の上に特別職を設けるという破格のオファーでしたが、私は丁重に断りを入れ、彼も私の判断を尊重してくれました。昼休みの一件において、弟子の離脱を予期した哀れな師匠の心情に少しばかり同情心も芽生えましたが、私にはクラスメートを師と仰ぐ純真がありませんでした。

今思えば、これが私の人生のターニングポイントであったのかもしれません。彼に弟子入りをしていれば、おそらく今のような〇職という憂き目にはあわず、A君の懐刀として特別職の地位に安寧としていられたはずです。

しかし、上記の追想には一考に値する材料が含まれています。それは師であったり弟子であったり、人は言葉一つで、それを許容さえできればいかようにもなれるということです。あなたがあなたであるのはあなたであることを許容しているからです。なぜ許容できるのかと言いますと、記憶という根拠があるからです。しかし、前回の記事で述べたように、記憶や過去には実体はありません。つまり、あなたは根拠に実体がないのにも関わらずあなたになれるのです。そして、その通りに世界が展開しています。何かになるのに根拠はいらないということであれば、好きなものになってしまえばいいのではないでしょうか? まずは手はじめに誰かと師弟関係を結ぶことをお勧めします。

ちなみにその後、彼らの師弟関係がどういった歩みを遂げたのかは知りません。しかし、未だに私の心を搔き乱すのは、A君が一体何の「匠」であったのかという巨大な疑問です。

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