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「自分=世界」

もう「自分」って煩わしいんだから!!

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アメフト「あ…ありのまま、今、起こった事を話すぜ!『俺は車がカマを掘った動画を見ていると思っていたら、それはアメフトの試合だった』。な…何を言ってるのか、わからねーと思うが俺も何をされたのかわからなかった…。頭がどうにかなりそうだった…」

日大アメフト部による悪質なタックルが世間を騒がしています。私も問題のシーンを動画で拝見したのですが、さすがに脱力した人間に後ろから勢いよく中原誠永世十段ばりに「突撃」しちゃマズイですよね(この高度な比喩を理解できない方は中原誠でヤフってください)。被害に遭った関学の選手がそう大事に至らなかったことは不幸中の幸いでしたが、ただでさえアメフトはジャミラのような防具を必須とする衝突を本義としたスポーツなのですから、お互いがルールを順守しながらプレーすることがケガを予防する意味でも最低限のスポーツマンシップであることは明白であります。

今回のアメフトの件と同列に語るにはややお門違いかと思われますが、私の学生時代にもスポーツのルールに関してひと悶着あった出来事がありました。それは小学生の頃、体育の時間で行っていたドッジボールである女子児童の顔にボールがヒットした時のことです。そこで一旦プレーが中断し、ある論争が勃発いたしました。「果たして顔面はセーフなのか? それともアウトなのか?」。様々な意見が飛び交い、議論が「朝まで生テレビ」のようにグダグダになった挙句、なぜか

男子はアウト、女子はセーフ

という、女性の権利を声高に叫ぶ田嶋陽子先生にお叱りを受けそうな結論になってしまいました。田嶋先生、先生のお名前の部分をピンクであしらってみたのですが、これもステレオタイプからくる一種の女性差別に当たるのでしょうか? ご不満でしたら他にウ〇コ色もご用意しておりますので、ご一報を頂ければ早急に対応したいと思います。

さて、ここからは常識というルールを逸脱したスピフトに移りますが、今回は記事を書こうと思った矢先にkuroさんからコメントを頂き、スピ住人なら誰もが混乱するであろう問題を吐露してくださいましたので、ここに紹介したいと思います。

スピ系の記事を読んでいてロジカルに考えた時、混乱するのが「エゴ」とか「本当の自分」とかの言葉の扱い方です。全体像を掴もうと思った時、場面場面で「自分」と表現されているものが所謂「エゴ」を指すのか「本当の自分」とやらを指すのかが見え辛い。
(確か○職さんはこのブログではそこを分けて表現すると仰ってた気がしますが・・・)

例えば「自愛」での「自分を甘やかせば良いんです」という表現。
この場合の「自分」は「エゴ」なのか「本当の自分」なのか。「自己観察」ではどの「自己」がどの「自己」を観察するのか。

愛したり観察したり認めたり許したりと色んな表現が出てきますが、それら全て主体とその対象となるものがある筈なのに「分離ではなくひとつである」とか「自分なんていうのは所詮まやかしで、そんなものは存在しない」といった表現に出くわしたり・・・。

ガチムチの理論派としては図でもあればスッと入ってくる気がするんですけど・・・。

「本当の自分」とか「別の領域」といったところの意識は自分の意思ではコントロールできないというのが僕の認識なので、結局の例えばところ大きな「本当の自分」から湧き出してくる思考をその中にある小さな「エゴ」が捕らえて反応し、それをまた別の「エゴ」が「あー。反応してるわあ」と眺めていたり、「エゴ」同士で「ええんやで」と言い合ってるようなイメージで、揺れる電車の中で隣に立ってるオッサンが凄いよろけているのを、自分もよろけながら「オッサンよろけてて草生える」と眺めているような印象なんですが、コレで合ってるのかどうなのか。。。

私も廃人時代にまとめサイト等で達人などのレスを読んでいて、この「自分」「自己」「エゴ」などの表記についてしばしば混乱させられました。このことについては私もブログを始めて気付かされたことなのですが、同じような内容で似たような文章であっても、文脈上の要請で表記を使い分けないと逆に真意がぼやけてしまうといったことが多々あり、そこは〇職も苦慮しているところではあります。そこにきて私はどの境地に立っても自分という思考は残るという「思考原理主義者」なので、さらに読者の方に混乱を誘発している側面もあるかも知れませんが、どうしても「自分」という言葉には汎用性がありますので、一般的な意味での自身を指す時もあれば、スピでいうところの「エゴ(=個人)」的な意味、または「本来の自分(=世界)」という意味でも使われますので、やはりその都度、文脈上から判断して頂く他ないかと思います。

しかし、それではリーダーズ・ファーストを掲げている私の名が廃れてしまいますので、その判断の一助にでもなればと、ここで改めて私の考える「自分(=世界)」論について述べておきたいと思います。

基本的には自分とは認識(意識)であり、それを端的に表したのが「自分=世界」であります。これはつまり、自分の認識(在り方)によっていかようにも世界を捉えられるということです。世界そのものが自分であるので当然の論理と言えます。しかし、この認識次第という柔軟性が逆に災いし、肉体を根拠とした世界との分離感に惑わされて、悲しいかな「潜在スピ子」という個人という小さな殻にも対応できてしまうのです。この誤認が俗に「エゴ(=個人)」と言われているものです。

メソッドとはこのエゴの立ち位置からのアプローチがほとんどですので、メソッドの対象として言及する時の「自分」や「自己」は基本的には「エゴ」です。すると、kuroさんが、

「自己観察」ではどの「自己」がどの「自己」を観察するのか。

と指摘されたように、観察される対象の自己(エゴ)を観察する自己(?)は一体何なのかという疑問に当たります。

それについては……すみません。〇職のくせにここ数日立て込んでいまして、尻切れトンボですが、ここで次回へとツービーコンチニュードしたいと思います。

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