最近はネットの発達により通販や動画配信サイトなどが充実し、レンタルビデオ店にわざわざ足を運ぶ人も少なくなったようです。先週末、実家に帰省した折にふらっと地元を散策してみましたら、大手のツタヤを除いて、個人経営の店は全滅(3店)していました。そのツタヤも以前は入居ビルの1、2階を占拠していたのですが、規模を縮小して1階のみで営業しておりました。時代の要求とはいえ、寂しいものがあります。幼少の頃に父に連れられてはアニメコーナーで恍惚とよだれを垂らし、ホラーコーナーでは恐る恐るビデオの裏を覗いた、私(おそらく私と同年代の方)にとってはそんな胸躍る空間がレンタルビデオ店でした。
その特別な空間が煩悩による主戦場と化したのはいつの頃だったでしょうか。大学、いや高校時代にはすでに戦端が開かれていたように思います。
借り出す時にはまず店員のメンツを眺め、男性(オッサンがベスト)がいることを確認した上で人目を避け暖簾を潜ります(隠語)。暖簾の先は禁断の地であります。その地で私の厳しい審査を勝ち抜いた1、2作品を手に取り、先ほど一瞥した男性店員のもとへ最短距離で向かい、会計を済ませては素早く退店です。この局面における主導権はこちら側です。ただ、問題なのは攻守が入れ替わる返却時であります。
なぜなら、返却時は店員が選べないからです。入店した瞬間に命運が決するのです。賢者タイムの余韻が冷めやらぬ中、羞恥心と底知れぬ自己否定心を伴って、重い足を店に運ばなければなりません。そこに借り出し時の躍動感はなく、あるのは罪人のような足取りだけです。「ここに来てオッサンは望まない。ただ、男がいて欲しい」。その一念で店のドアを開きます。見事に引き寄せ成功です。店員は若い女性が2人です。「男を望む」という不足の思考がそのまま世界になった瞬間でした。
咄嗟に返却を先輩から頼まれた感を醸し出しながら瞬時に2人の顔面偏差値を弾き出し、数値が低い方の前へ進み出てレンタル袋を渡し、すぐに背を向けます。1分にも満たないこの確認作業中、女性店員の軽蔑の波動をひしひしと背中に浴びながら、「ありがとうございました」という合図とともに速すぎず遅すぎず歩を進め、店の外に出て空を見上げます。そこで私はやっと煩悩の十字架から解放されるのです。
日本版「ショーシャンクの空に」です
おっと、このままでは誰も得をしない私の「青い体験」で記事が終わってしまいそうなので、ここでスピリチュアル業界でよく囁かれています自由意志の有無について、上記の私の体験から検討してみたいと思います。
先に私の立ち位置から申し上げますと、自由意志は「ない」派でございます。人は自由に振る舞っているつもりでも、それはある外的な要因からそう仕向けられた意志や行動であるという考え方からであります。
上述の体験でいえば、一見、私は意志を持ってレンタルビデオ店に向かい、店員の男性を確認してはレンタルの意志を固め、意志によって作品を厳選し、意志通りにお金を払ってビデオを借り出したと映ります。
しかし、これを詳細に観察すれば、制御しようのない生理的な欲求により私はレンタルビデオ店に導かれ、男性店員の存在によって別の日に借りるという選択肢が排除され、その店が入荷している作品の中からさらに私の趣味と気分とに合致したものが抽出され、羞恥心によって男性店員へと向かう動線が設定され、日本社会の経済システムから金銭の支払いを要求され、重力があるために飛んで帰ることができず徒歩を余儀なくされる、という受動的なものへと一変します。
あたかも自分が自由に駆使していると思っていた意志や行為は全て、外的な刺激に対する反応として起こっていたのです。ただ、そのような反応という枠(制限)の中で、私たちは普段それを自覚することなく、その時々で自由に意志を持って行動していると思っています。
よって、自覚がないということに重きを置けば、自由意志はあるとも解釈できます。ただ、振り返ってみてその意志や行為に根拠や理由がある限り、それは導かれた(制限された)ものだと言えるのです。
では、それを誘導しているのは何かと申しますと、自分(=世界=設定)であります。自分の認識(設定)によって世界が動き、個人である私(=エゴ)の意志や行為をその世界に沿うように仕向けているのです。
私も何が言いたいのか軽く混乱してきましたが、要は自分が見たい世界を設定すれば、そこから生じる意志や行為も歯車の一部(その世界に沿った完璧)になるので、それを受け入れてもスルーしてもいいですよ。ただ、設定だけは変えないでね(エゴを関連させずデフォルトに)ということでしょうか。
今回は意図せず「自由意志」を取り上げてしまったので、また別の機会にちゃんと考察したいと思います(気が向けば)。ですので、今回はいつも以上に流し読み推奨です。