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アルファポリス

願望実現「Mr.長嶋(感覚)」編

「でも」が世界を作っている!!

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海岸つい先日、例の美女社員が知人に誘われて行ったプロレス観戦にいたくハマったらしく、帰ってくるなり私にパンフレットやスマホで撮った写真などを見せてはその魅力を語り出し、時間が合えば2人で観戦に行こうと持ちかけられました。全く興味がなかったのですが、断ろうにも〇職のために時間が合わないわけはなく、プロレス観戦が既定路線になってしまいました。そんな日本のプロレスには全くアンテナが反応しない私ですが、昔、深夜に放送されていたアメリカのプロレス「WWE」の方は興味深く拝見しておりました。

 

アメリカのプロレスは日本のそれよりもエンタメ色が強く、リングという舞台装置を借りた「恋あり・友情あり・シュールな笑いあり」のシチュエーションコメディです。その中でも私を爆笑の渦に巻き込んだのが、敵役のレスラーに彼女(女性レスラー)が寝取られたということを知らされたあるレスラーが、リング上で一人、怒りに打ち震えているシーンです。この打ち震えているという表現、何も比喩や誇張で使用しているわけではありません。言葉そのままに、そのレスラーのアップが映し出されますと、彼は筋骨たくましい肉体をプルプルと震わせ、そこにリングアナウンサーがこう実況を畳みかけるのです。「怒りに震えているー!!」(当然、全部台本です)

私、怒りで実際に震えている人、初めて見ました

そして、その情景を見てなぜか観客が熱狂するという、とても常人では理解しがたいレスラーと観客との実にカオスなオーケストラに私の腹はよじれるばかりでした。それでもなぜか、毎週その茶番劇にチャンネルを合わせてしまうという妙な中毒性は克服することができませんでした。

「何だか楽しそう。でも、その世界は理解できないや」と、理解ができないからと言って、その楽しさを放棄してしまうのはもったいないことです。

その世界が理解できないけど、何だか楽しい

これでいいのです。

「【読者のお悩み相談室】~現実に飲み込まれないためには?~③」の記事でも使用した「思考の着地点」という言葉があるのですが、この思考の着地点が認識となり、そのまま現実に投影されていきます。

例えば、イメージングを例に出しますと、ある女性に片思いの男性がいたとして、彼とラブラブな情景を目を閉じて想像したとします。「彼と待ち合わせをし、彼の車の助手席に座り、潮の香りが漂う埠頭で車を降りて、手を繋いで波打ち際へ歩き、そこにある流木に腰を下ろし、見つめ合って(以下略)」というダブル浅野が出てきそうな80年代のトレンディドラマ風なストーリーをほくほくと堪能し終え、彼女はふと目を見開きます。

視界に広がっているのはいつもの実家の暗い天井です。すぐ隣には妹が寝ていたりなんかして、彼と付き合っているのなら彼のマンションで同居しているはずだとエゴが騒ぎ、エゴの思考でもってイメージングを塗り潰し、それを思考の着地点にして現実に投影させてしまいます。彼女の内面の変遷は「(イメージングで)彼の恋人でウキウキ……(目を覚まし)でも、現実は……」ということですが、ここで注目です。

その「でも」はいりません

「でも」以下が思考の着地点です。視界からの情報に思考の着地点を明け渡さないことです。視界の映像が黒(瞼の裏)からリアルな情景に移り変われば、イメージングを中断しなければならないという謂れはありません。黒であろうが街の景色であろうが、それは過去の映像です。過去にこれからの未来を委ねるなんてのはナンセンスです。目を閉じていようが開けていようが、何を聞こうが言われようが、内面では在りたい自分のイメージングを貫くのです。

また、思考の着地点(「でも」以下)がそのまま現実に投影されるということは、当然、逆のアプローチも成立するわけです。

「現実は〇〇だけど、でも、私は彼と付き合っている」

言ってみれば「自愛」です。

自分がどういったスタンスで「でも」を使用しているのかを見極めれば、エゴからでも「自分=世界」が見えてくるかと思います。

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