はい、それじゃあ「マンドラゴラ」のお話をしましょうね。マンドラゴラというのは、ナス科の植物の名前で、別名「マンドレイク」なんて言ったりしますね。かっこいいですね~。根茎がいくつにも分かれていて、それが人の形状をしている場合もあると言うんですね~。怖いですね~。ですので、マンドラゴラを引き抜く時には人の悲鳴が聞こえるなんて噂もあるんですね~。恐ろしいですね~。なぜ、私がこんなお話しをしているかと言うと、今日それが兵庫県の観光施設で開花したとニュースになってたんですね~。それに便乗してアクセス数を稼ごうとしたんですね~。卑しいですね~。こんな姿勢でいつも記事を書いています、どうも、ブログニスト駿です(元ネタは体操アニメです)。
無思考は前回お話ししたように、「自分=世界」を体感するためには一番有効な在り方だと思います。無思考そのものが在り方として完結しているので、その状態に慣れてくれば自己が次第に薄まり、頭ではなく体感として世界と一体であったことを思い出せます。厳密には「自分=世界」を思い出す認識の主体がありますので、私はそれさえもエゴと定義しています。ただ、それは記憶や過去という衣服を脱ぎ捨てた、靴下のみの変質者エゴです。(靴下さえも脱ぎ捨てることができれば認識はなくなり、もはや人であるか疑わしいです)。
コツは前回申し上げた通り、一旦、願望実現という動機は棚に上げて、無思考という在り方そのものに興味を持つことかと思います。短い時間でも無思考でいられれば、不思議な安心感に包まれるかと思います。ここで少し白状しますと、無思考は「今今メソッド」とほぼ同義語です。ただ、今今メソッドは「自分=世界」を前提とした上での取り組みで、無思考は「自分=世界」を前提とせず、それを実感するための在り方なので、あえて分けて書きました(構成上迷いましたが)。以上、つらつらと前回の補足的な内容となりましたが、無思考は願望実現とは離れて、人生を送る上で大きな助けとなってくれるかと思いますので、改めて稿を少し割くことにしました。
で、今回の本題に入りたいのですが、そのまま書けば記事が冗長となってしまうため、次回に向けての導入文として内容を変更します。ご容赦ください。
思考とはおわかりのように「体感」を促すものです。しかし、エゴは執拗に思考での「理解」を求めてきます。理解への執着も思考と見抜き、一刀両断に断ち切れるに越したことはないのですが、ほとんどの人がエゴの一声でそちらにへいへいと従ってしまいます。意志薄弱は衆生の常であります。しかし、そんな衆生に手を差し伸べた、エゴから「自分=世界」を理解するアプローチがあります。
それを今回紹介するつもりでしたが、紙数の関係(マイルールで勝手に字数を決めているのですが)で次回への持ち越しとなります。