なになに? 海の向こうのメジャーリーグでは、イチローやダルビッシュら多くの選手たちがキャンプイン間近のこの時期になってもまだ所属先が決まらない、歴史的なFA市場の停滞が起きているらしいです。その要因は今季のFA選手の質や球団側の緊縮財政など様々らしいのですが、今季もイチやビッシュの八面六臂の活躍を見たい半面、彼らが〇職となれば日本ニート総連合会の地位向上や再評価の一助にもなりますので、私としましては複雑な心境を拭えません。
つまらぬ葛藤で気を揉んでいる場合ではありません。気を揉んでもええんやで。←自愛
そう、「自愛」の続きでした。実は前回の記事とは別に、「芸能人との付き合い方指南・シーズン2ー④ ~自分が好き?~」という記事で一度「自愛」について記事を書いています。
その記事を要約すれば、「願望を叶えたいという根底には自分を好きになりたいという本丸が隠れている。これを「自分=世界」に当てはめれば、「自分(自分のことが好きな自分)=世界(願望が叶った世界)」となる。であるなら、先に自分を好きになってしまえば、世界も実現した現実を見せてくれる」といったものです。
これは自愛の効能を一つの側面から強調したものです。これはこれで自愛の特性を活用した有効なアプローチなのですが、自愛の本質はよりダイナミズミに溢れ、全てのメソッドの短所を補う、エバラ黄金のたれのような万能メソッド(在り方?)なのです。
当ブログでも願望実現に向けた様々なメソッドや在り方を、その狙いや実践における注意点などを交えて紹介してきましたが、あくまでも私の感覚を言語化していますので、私とフィーリングが似通った方はすんなりと実践して効果を上げやすい半面、新たな難民と化しスピリチュアルの泥沼に半身を埋めている方もたくさんいるかと思われます。「自愛」はそういった多数の難民を泥沼から引っこ抜くほどの強大な腕力を持っています。
前回の記事でも申し上げましたが、自愛とはとにかく今の自分を許すのです。日常の一挙手一投足を愛でるのです。
普段の生活において我々は思考によって様々な関連付けを行い、そのことで世界の広がりに制限をかけています。関連付けとは具体的には「〇〇であるには〇〇でなければならない」といったことです。メソッドをしている間も、「アファメーション」であれば言葉を呟かなければならない、「今今メソッド」では「今」にあらねばならないと、そこに関連付けが発生してしまいます。
そして、その関連性から逸脱した時、そこから「不足」というものをさらに関連づけるのです。「呟くのをサボってしまった…」「『今』に集中できなかった…」などと消沈し、そこから「これでは願いが叶わない…」と柔道さながらの合わせ技を行い、頼んでもいないのに不足という一本を取りに行くのです。もはや一人乱取り状態で、一人で投げの所作を行い、一人でスッ飛んでいるのです。
自己観察などはその思考の一人乱取りに気付くことで、不足を受け流すものですが、やはりそこに気付くという行為がある以上、それに対しての出来不出来が発生してきます。「思考に飲み込まれてしまった…」と不出来であれば、やはりそこも不足の温床となってしまいます。
つまり、どういったメソッドであれ、在り方であれ、不足は忌避の対象なのです
しかし、自愛はそうではありません。
思考や不足さえも肯定し、許して受け入れてしまうのです。思考と対峙するという図式そのものを消滅させるのです。自愛さんは実にダイナミックです。
「呟くのをサボってしまった…」なんぼでもサボったらええやん。「『今』に集中できなかった…」でも…それって素敵やん。「思考に飲み込まれてしまった…」飲み込まれたん? これで願い事叶うやん。
もうメチャクチャです。自愛とは言い換えれば「コミュ障メソッド」とも言えるかもしれません。エゴ(思考など)がいかに不足で討論を挑んでこようが、とにかく受け入れ、肯定していくので議論になりません。思考や不足でさえも肯定することで、逆に関連付けを消滅させ、エゴをいかに対処していくのかという潜在意識のテーマすらも破壊してしまう、恐るべきデストロイヤーなのです。
と、同時にいかに今の今まで自分が無意識に自分を責め続けていたのかを実感することができます。そして、その責めていた過去すらも肯定します。肯定とは完璧認定とも言えます。どんなに不完全でも不足まみれでも、「オーッケーイ!」と解説者・古田並みに、決してそれは間違えではなかったと受け入れ、肯定していくのです。続けていけば、無防備になります。メソッドやら不足やら潜在意識やら、そういった重い具足は既に周りに転がっているはずです。無防備とは何に対してかと言いますと、充足です。無防備ですから充足という熱風を肌で体感することができるのです。今のままで完璧だと、今のままで叶えていいんだと(叶っている)とわかります。いや、元々そうであったと。