推しメンキター!!平昌五輪マス大山スタート女子で、私が予てから公言しています推しメン高木菜那ちゅあんが今大会2つ目の金メダルをゲットしました。終始好位置につけ、最終コーナーで先頭に立って、そのまま後続を寄せ付けず1着でゴールを切ったその姿は、往年の三冠馬ナリタブライアンを思わせる走りでした。4年後の北京ではぜひ、シャドーロール姿の菜那ちゅあんを見てみたいものです。
いやしかし、たまげた姉妹ですね。妹の美帆ちゃんと合わせて1大会で金2つを含む4つのメダル(パシュートは1つと換算)を荒稼ぎとは、今年の有馬記念での菜那タブライアンと美帆ハヤヒデの兄弟対決が楽しみです。
「あれ、ビワハヤヒデが兄でしたっけ?」
何はともあれ菜那ちゅあん、おめでとうございます。あ、カーリング女子のみなさんも銅メダルおめでとうございます。
以上、平壌からでした。
それでは前回の「認識の変更」編の続きです。
なぜ私が「願望が願望であることを保てない」認識になったのかということですが、結論としましては知らないうちにと前回申し上げました。しかしその間、「なる」のようなことをしながら、「金と女が降ってきた物語」⑤にも書きましたように、思考を客観視し、それをポイ捨てすることを心がけていました。今振り返りますと、このアッパー昇竜拳のようなコンボが認識の変更への大きな動力になったのではないかと思います。
「『なる』シストへ捧ぐ」の記事でもそれらしいことを書いたのですが、「なる」を実践していく中で、思考や現実に集団リンチを食らって「なる」を解除し、不足にまみれた「元の自分」に戻ってしまうことが多々あるかと思います。そんな時、「元の自分」であるという思考の上に強引に「理想の自分」という思考を被せて「なる」を再開するより、一旦「元の自分」であるという思考をただの現実に対する反応だと客観視し、そのことで自分が「元の自分」に戻ったのではなく、「元の自分」になっていたことに気付くよう意識します。「元の自分」がデフォルト(不変)ではなくただの思考(可変)であると気付くことで、それを「理想の自分」という思考に置換することが容易になるのです。
結果的に私は以上のようなことを繰り返し実践していたのですが、このことで絶対視していた自己(エゴ)というものの根幹が揺らぎ始め、その脆弱性を目にしていくにつれ、徐々に自分は何者でもないただの意識であると体感できました(体感しているのもエゴですが)。
この「自己の崩壊」が「認識の変更」そのもので、自己(主体)がいないということは他者(対象)もなく、「自分=世界」となるわけです。世界がすっぽり自分の中に収まり、世界の在りようが自分の内面そのものという実感に繋がっていくわけです。
つまり、認識の変更とはあくまでも実感なので、実感できなければ「自分=世界」が適用されないというわけではありません。実感できようができまいが、「自分=世界」は万人の土台となっていますので、知識として押さえていれば、それを利用して願望を叶えられるというのが、当ブログの趣旨です。余談でした。
そういったわけで、私の認識は漸次的に変化していきましたので、「ワイ、ワンネス体験にむせび泣く」ような感動的な体験などはなかったのですが、現実に引きずられない内面を主体とした意識の在り方は、〇職になったにも関わらず、毎日を自由で新鮮なものに変えてくれました。
ただ、以上のように認識の変更に至るまでの実践や経緯をある程度言葉にすることは困難ではないのですが(面倒ですが)、スピリチュアル系のまとめサイトなどを見ていますと、問題は認識の変更後の「願望が願望であることを保てない」という実感、つまり、なぜ「既にある」と思えるのかという部分の説明に苦労があることです。
ということで、「既にある」はなぜ言語化が困難であるのか、そういったことを私の感覚などを絡めながら記事がまとまり次第、「認識の変更」編の続きを投稿したいと思います(次回かも知れませんが)。
YOSHIさん、現実を疑っている自分さえも現実ですので、それすらも疑ってみてください。