俗に言う「認識の変更」編

「既にある」ってこれですか、達人さん?

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キャンパス平昌五輪のフィギュア女子は男子とは打って変わってロシア勢のワンツーフィニッシュとなりました。フィギュアでは後半にジャンプをすると得点が1.1倍になるそうで、それを露骨なまでに活用し、全ジャンプを後半に組み込んだザキトワ選手が優勝を果たしました。ルールの不備を突いたとは言え、後半に全ジャンプをこなすその技術、体力は称賛に値すべきで、フィギュア界の沢尻エリカたるにふさわしい演技でした。おめでとうございます。

 

我らが日本勢なのですが、宮原知子選手が4位坂本花織選手は6位ということで、惜しくもメダルを逃しました。2人ともほぼノーミスで、特に宮原選手は素人目にはメダルには届いたかなと思ったのですが、あと一歩の残念な結果になってしまいました。その採点に関してなのですが、私にはどうしても拭えない疑念が一つあるのです。口外しようかしまいか逡巡するところなのですが、えーい、言ってしまえ。

…ルックスも審査の対象に入ってませんよね?」

「YES」と即答されれば、納得せざるを得ない結果なので、この話はここで止めにしておきましょう。もちろん、日本の両選手とも、大変にキュートでございます(ただ、それ以上に西洋人の美貌が反則でした……)。お疲れさまでした。

以上、平昌からでした。

前回「認識の変更」編は随時更新と申し上げたのですが、とりあえず今回と次回くらいは認識の変更について、探り探り書いていこうかと思います。

まず、認識の変更と言うからには、認識の変更以前と以後があるわけですね。しかし、私の場合で言いますと、自分で「あ、認識が変わった」と自覚をした瞬間や境などは明確にはございませんでした。ただ、ふと気付けば、現実というものに意識の重心を置けなくなり、知らない間に常に内面を真実としていました。「金と女が降ってきた物語」でも言及しましたが、意識せずとも内面に主(内面)従(現実)関係が確立していたのです。

エゴ(自我)とは、現実に対する反応であります。「親」に会えば「子供」として振る舞い、「会社」に行けば「部下」になり、「女性」の前では「男」を意識し、便所で「デカい〇ソ」をすれば「俺のだ」と反応するのです。そして、そのような局面局面で反応したエゴという単色だけで内面のキャンパスに描き込み、それを現実に投影させています。

現実に重心を置けなくなるというのは、現実の事象は思考(記憶)の関連付けによる観念(反応)であると理解しているからです。「親」というものも記憶からくる観念ですし、当然、それに反応する「子供」も観念です。観念とは言ってみれば幻想ですから、幻想だとわかっていてそれを内面の柱にできるわけもありません。

つまり、エゴが幻想であると見抜くことで、今までは単色でしか描けなかった内面のキャンパスに、本来はどんな色でも、どこまでも自由に充足を描けることができるんだと気付けるのです。そして、内面のキャンパスに描いたことが真実(今)だとわかっていますので、それが現実に投影されようがされまいが気にならなくなります(投影されますが)

願望というのは叶っていないから願望になり得るわけで、心に描いた時点でそれが「在る」と確信できるので、願望という概念自体が吹っ飛んでしまいます。

これが前回のプロローグで私が「認識の変更」の定義としました「願望が願望であることを保てない」の真意でございます。

ただ、上記はあくまでも私個人の感覚でございます。これがスピリチュアル業界で囁かれる「既に在る」と同義なものであるかは達人さんに聞かないとわかりませんので、その点はご留意ください。

「では、なぜお前はそのような認識になったのか?」と読者の方はお思いだと思います。結論から申し上げますと、冒頭に書きましたように認識が切り替わった転換点みたいなものはありませんでした。ただ、やはり思考を客観視するということが一つのキーになったのではと思いますので、過去にもそれらしいことは書いているのですが、改めて次回に書きたいと思います。

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