当サイトは今ではGoogleに「こまけぇ」というサイト名に強制改名されましたが、元は「こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!」という長ったらしいサイト名でした。長すぎる余り私も自分で名付けておきながらサイト名を間違える始末で、後半部分を「願望叶えようぜ!」とかそれらしい言葉を知らずに誤記してしまうことがあります。
余談ですがそんなサイト名から私は読者の方に「こまけぇさん」「こまさん」、レアなパターンでは「こま願望さん」などとお呼び頂くことになったのですが、過去に1度だけ「スピ願望さん」との書き込みを発見した際にはもはやサイト名が半分しかかすっていないことから思わず吹き出してしまいました。それ以降は「こまリアルさん」のようにさらにアクロバティックな呼称が書き込まれないかとワクワクしていたのですが、今のところはまだ「スピ願望さん」以上のものはなさそうです(私が目についた範囲ですが)。
ということで当サイトは願望実現を謳っているわけですが、願望実現の定義とはそもそも何なんでしょうか? 現実に自分が理想としていた状況が物質的に現れるということでしょうか? いや、それだけではありませんね。その状況を認識して内面の充足(幸せ)を味わってはじめてそれを願望実現と(エゴは)称するのです。つまり現実での理想の状況とはそれのみではただの風景であって、それに対して個人のフィルターを通すこと(記憶による意味付け)で内面に充足が発生し、願望実現に至るというわけです。
説明の便宜上をあえて「現実での理想の状況」と「内面の充足」を切り離しましたが、厳密に我々が願望実現という言葉を思い浮かべる場合には「現実の理想の状況」から「内面の充足(幸せだなぇ)」への瞬時の移行というかニコイチで想定しているので切っても切り離せないとは言えますが、いずれにせよ願望実現とは内面によって完結するわけです。つまり願望実現に「内面の充足」は必須なわけです。しかしその「内面の充足」を引き起こすのに前者の「現実での理想の状況」は本当に必要なのでしょうか? もう少し掘り下げていきましょう。
例えば夢の中で意中の人とデートをしたとします。その夢の中ではウキウキランランで天にも昇る気持ちです。まさに幸せの絶頂です。その幸せって…内面での充足ですよね? あら、現実の世界では意中の人とデートどころか自室のベッドでいびきを立てながら寝ているにも拘わらず、内面が充足されちゃっているのです。
これはまさに「現実での理想の状況」に頼らなくても内面は充足されるということの証左です。「現実の理想の状況」を頭(内面)の中に描き出し、それをさらに内面の中で味わって充足(幸せ)を感じているのです。それは一貫して内面世界での出来事であり、現実世界はノータッチなのです。
で、この夢の中で味わった「内面の充足」なのですが、これは仮に現実世界で意中の人とデートをした時の「内面の充足」とは何が違うのでしょうか? それに至るまでの過程は違えど、充足自体は違わないですよね? 内面において感じた幸せに差異はありません。つまり「内面の充足」に関してはそのトリガーが現実であれ夢であれ、同じものなのです。そして何かトリガーがあっての内面が充足するという、この方程式も同じです。しかしほとんど双子のように見えるこの「内面の充足」の発生過程ですが、エゴは前者(現実で理想の状況を経験)のみを願望実現と呼び、後者(夢orイメージングでの体験)を妄想と一蹴してしまうのです。
エゴは現実というものを介した内面の充足だけしか「願望実現」とは認めず、内面から直接溢れてくる充足に対しては頑固にもそれを適用しようとはしません。現実が大好きなエゴちゃん。現実教の狂信者エゴちゃん。なぜエゴちゃんはそこまでして現実というものに拘るのでしょうか…(次回に続く)