「自分=世界」 俗に言う「認識の変更」編

便器の蓋も、自分も、願望も、ただ認識通りにそう振る舞っているだけ!!

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トイレようやく眠りから覚めました。本当は先週に更新するはずが、書いている途中で急用が入りまして、中断したままずるずると今日に至ってしまいました。その時に書いていたものはテンションの違いから破棄することにして、ちょうどコメント欄に記事になりそうなネタがあったのでそれをチョイスしたいと思います。取り上げますのは、もうすぐ4年生さんのコメントです。

◯職さんこんばんは!
はじめまして^_^
潜在スピ子歴3年です。楽しくブログ拝見しています。
最近あれ?っと思うことがあり、こまけーさんにぜひ聞いてもらいたくて。

自分も他人も目の前のスマホも全部自分だとか耳タコでよくわからなかったのですが、自分と思っている体も自分のと思っている思考も自分のと思っている感情も全てイコール近所のAさん、便器の蓋、電車、猫と同等のものというか、それらからAさんや便器の蓋という名前を取ったら同じものなんじゃないか。みたいな。
認識できるということは自分も含めて全てただの物体なのか?と思ったんです。

そして、心に浮かんでくる願望も同じくただの物体で、それを認識できるってことは思い浮かんだ時点で現象化なんじゃないかと。
内面に思い浮かぶ時点で叶っているというのは、もしや内面だけじゃ現実化とは言えないってしていただけで真実なのかもしれないと思ったんです。
どうでしょうか?
聞いてもらいたくて仕方なくて(*´꒳`*)


初出が「〇職さん」で2度目が「こまけーさん」となっているのですが、両方とも私ということでよろしいでしょうか? そのつもりでお話しします。

そうですね。結局、物質と思っているのも、「手触りがある。だから物質だ」という感覚を媒介した認識なんですね。最後はどこまでいっても認識。もっと言えば、それは物質であるだろうという無意識の認識(認定)があるから、それが物質として振る舞っているだけなんです。

便器の蓋も電車も、自分という肉体や意識もそう認識して初めてそれがそうなっているというカラクリです。もちろん、願望だってそうです。それを願望だと認識するから、いつまで経っても頭の隅から出てこず、願望らしく振る舞っているのです。願望自体はその認識通り、清く正しく振る舞っているだけです。

ただ、頭で認識できるということは当然、その「光景」があるわけです。とにかくその「光景」は在るんです。ならその光景を、現実として認識(採用)すれば、その景色が現実の事象として振る舞ってくれるだけです。それを五感として味わうと認識するだけです(先に五感で味わっちゃうのがイメージングですかね)

少し変な言い方になりますが、思いついた時点でそれはいかようにも認識で調理できるのです。例えば、海でサンマをとれば、それを刺身でも焼きでも調理の仕様はありますよね? でも、サンマそれ自体を認識できなければ当然、刺身も焼きもできませんね。

故に思いついた時点でそれを現実として転換できる要素は既に備わっているのです。認識一つでそれは現実に在るんです。便器の蓋は見れて触れるという感覚があるから現実として認識しやすいというだけで、カラクリは同じです。ただ、それを現実として認識するだけ。まあ、当然、現実というのも認識ではありますが。

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