土日の更新はやはりツラいということで第二章の開始以来、始めて2日間のブランクを作ってしまったわけですが、2日間も記事を書いていなかったから休養十分かと思いきや、張り詰めていた糸が切れてしまったかのようにやる気が緩んでしまった〇職さんです。それでも何とかPCの前の座っているのは前回の記事(「既に叶っている」でエゴをバグらせる)において「次回へ続く」と引き延ばしを図ったからで、とにかくそれを完結してしまわないとさすがにマズイだろうという良心がうずいたからであります。また1本記事を投稿したら気分も一新するかもと考え、今重い指取りでキーボードを打っているところであります。
ということで前回の続きです。
そこで暇な人に提案なのですが、この機会に一度、業界の「既に叶っている」の教理に全幅の信頼を置きませんか? それを100%の真実として受け入れませんか? そしてそれを真実とした場合、エゴの「叶っていない」という言葉はどうなりますか?
そう、デタラメということになりますね? ただそうは言ってもエゴは自身の周囲を取り巻く環境からそれを決して承服することができません。何とか抵抗を見せようとする。しかし今回はこれまでとは違って「既に叶っている」を真実として全面的に受け入れているわけですから、この「決して承服することができない」という思考すらもエゴはデタラメという結論にせざるを得なくなります。するとエゴはデタラメという結論には達したものの、なぜそれがデタラメであるのかを理解することができないというジレンマに陥り、バグってしまいます…危機に陥ったエゴちゃん、そんな彼が取り得る選択肢はここで2つに絞られることになります。(次回へ続く)
と、引用が長くなりましたが、ここでエゴが取り得る選択肢の1つは自身が洗脳装置のデタラメなのですから、それを雑音の如く完全に無視するという力業路線です。とにかくエゴが何を言おうが「既に叶っている」という認識を貫き通す。よくある現実(思考)無視ですね。もちろんこれは「なる」の一種ですが、「なら」なくたって既に叶った世界なんだからいずれ現実化されるだろうとの認識でも構いません。これは一般的なメソッドなので読者の皆さまには耳タコであるかと思われるので深くは立ち入りません。
ではもう1つは何かと言うと、エゴの困惑を受け止める路線です。「既に叶っている」を真実とはしたものの、それを理解できずにパニクっているエゴを切り捨てるのではなく、既に叶っているとされる現実に適応させていく路線です。つまり「既に叶っている」というゴールポストは決して動かさず、それに対してエゴなりの辻褄を合わさせることです。
例えば廃人の潜在スピ子さんを登場させて彼女にそれを実践させますと、
「この業界の真理や達人の言葉によればどうやら願望は既に叶っているらしいの。とにかくそれを真実として受け入れるわ。でもエゴにはそれが理解できずにアワワと立ち往生している。でもなぜエゴには理解できないんだろう? 悟りを開いていないから?、いや、そうしたことを言い訳にして理解を諦めているだけじゃない? 既に叶った世界を真実として採用しているんだから、現実が変わっていないように見えても今感じている風の臭いや踏みつけている地面の感覚、街の喧騒やすれ違う人たちの表情、逆説的にそれらは全て叶った世界の出来後になるんじゃないの? この森羅万象の全てが理想の世界へと繋がっている…あら、そう思うと何だかこの現実が愛しくなってきたような気がする。でも、それだけじゃないわ。だとすると…お金が欲しいのに口座の数字がスッカラカンという現実、もっと言えば既に叶っているという世界を理解できないエゴの思考すらも叶った世界の出来事なんじゃない? つまりエゴは色々と悩んでいるけど、それは叶った世界だから浮かんできた思考なんだし、もうこれからは何を考えてもどんな行動を取っても(エゴから見て未来の)現実化に行き着くんじゃないの? よし、もう私は達人よ」
…と潜在スピ子に成り代わりながら内面描写をしてみましたが、私だけでなく古参の読者の方も途中で気づかれたかとは思いますが、これも「なる」であり、または「自愛」でしたね。「なる」を細分化すれば前者が「現実の全てを一切無視する系のなる」、後者が「現実の全ての出来事も叶った証拠とする系のなる」となります。うーん、新しい切り口から記事を書いても結局は既存のメソッドに収まってしまうという顛末でしたが、詰まるところどのメソッドも目的とするところは同じであるということを改めてお分かり頂けたのではないでしょうか…。また次回、頑張りたいと思います。