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「自分=世界」

スピ的な体感を求める必要のない理由!!

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お茶の間『ちびまる子ちゃん』の作者であるさくらももこさんが先日亡くなられました。ちびまる子ちゃんといえば日曜夜のお茶の間を彩る、『サザエさん』と並ぶほのぼの系国民的アニメですが、私個人としましてはほんの数回程度しか視聴したことがありませんでした。と申しますのも、私が子供の頃には『ドラゴンボール』『北斗の拳』『キン肉マン』『聖闘士星矢』などバトル系少年アニメが全盛期で、それらの血肉湧き踊る冒険譚が体に染みついた少年〇職には、「戦闘力」が2以下であろうキャラクターたちの小さな日常を描いたちびまる子ちゃんの緩さはどうしても体に受け付けなかったのです。しかし、そんな私でもちびまる子ちゃんと聞けばなぜか郷愁に誘われてしまうということは、やはり国民的を冠するに値するアニメなのでしょう。ご冥福をお祈りいたします。

さて、私は日頃から世界の中心で「自分=世界」を叫んでいますが、同時に体感などは必要ないとも申し上げております。つまり、神秘体験がなくとも現実は内面次第でいかようにも変わるということを主張したいわけであります。その主張の根拠とは何かと申し上げれば、まさしく私、ポエムニストの経験からであります。

最近、読者の熊五郎さんから「自分=世界を心から信じられるようになったのは、ランチのくだりあたりからですか?」とのご質問を受けたのですが、私が自分なりに「自分=世界」を腑に落とし込めたのは、「金と女が降ってきた物語―私が〇職になれた理由⑧」の記事でも言及したように、 不労所得が入った後のことであります(それまで緩やかに認識は変化していましたが)。つまり、スピ的な体感がなくとも現実は変わったということです。


過去に何度もお伝えしたように、私は「自分=世界」を前提として、内面に理想の自分を強引にねじ込んでおりました。そうしているうちに、自分の在り方で世界の見え方が変わるんだということを何となく肌で感じ、内面を軸にした主(内面)従(現実)関係を確立するに至りました。ただ、この時点ではある意味「自分=世界」を活用した洗脳の結果で、振り返れば現在の自分に定着した認識とはかなり距離のあるものでした。

それでも徹底した実践は内面から不足を弾き出し、充足を迎える余地を与え、徐々に現実が動き出したのは既報の通りであります。スピ的な体感があろうとなかろうと、どんなアプローチを取っていようがいまいが、とにかく内面さえ変われば現実は勝手にそれに応じて変化していきます。

悟り的なことを求めている修行者のような方は別として、私のような煩悩の欲求を満たしたいだけのスケベエな御仁であれば、体感を求める必要はありません。ただ、内面を変える。内面が変われば世界の見え方が変わります。その見え方がそのまま世界の設定になるだけです。これは様々な気付きを経た現在の私の結論でもあります。体感を求めるまでもなく、メソッドなどを通して内面と世界との連動を見ていけば願望は叶っていきますし、それと並行して「自分=世界」も体で落とし込めるようになっていきます。

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