しばらくぶりですみません。最近は本当に仕事でバタバタしていて忙殺されております。暇だった時は昼休みにスマホからおおかまな文章を打ち込んで家に帰ってから奥さんが帰宅するまでの間にPCで記事を仕上げるといったルーティンでやっていたのですが(終わらなければさらに翌日の昼休みに仕上げ)、今は仕事も遅くなって帰れば既に奥さんがいるといった状況なのでPCでカタカタすることもママなりません。一応はまだヤバイ業界に出入りしていることは奥さんには内緒にしているので(たぶんバレてません)。隠れキリシタンならぬ隠れスピリチュアンのような生態ですが、皆さんの隠れスピリチュアン・ライフは如何でしょうか?
ということで前回のフワちゃん(夢という「自分=世界」体験装置)の、
これは全てが自分に内包されているという感覚でもありますが、むしろ目が覚めている現実世界のエゴにおいては「全てが外側」という意識を持った方が感覚を会得しやすいかもしれません。
からの続きとなります。
業界の真理である「自分=世界」を過剰に意識する余り、「あのお花さんは私。あの蜂さんも私よ。あの道に落ちているウンコさんも私なんだから全然汚くないの、ウフフ」なんて思ったりしたことは…ないですよね。ただ少なくとも「すれ違った人や好きな人に対しては私の意識の中(世界)にあるんだ」的なことを心掛けた人は一定数いらっしゃるかと思われます。しかしそこで自分(エゴ=潜在スピ子)に対しても「あ、コンビニのトイレできばっているこのスピ子も私だわ」と意識付けをされた方はいらっしゃるでしょうか? おそらくはいないか、いてもごく少数だと想像されます。
仮にスピ子すらも自分認定していなければ、それはエゴ(スピ子)の立ち位置から「自分=世界」を思い込もうとしているだけに過ぎません。エゴと他人が分離しているからこそ他人だけを自分の世界の住人だと思い込もうとしているわけで、他人とエゴを等価値におかない限り、それは本当の立ち位置だとは言えないのです(ダメだとは言い切りませんが体感も薄く遠回りかと)。
一見エゴを自分だと認定することには何やら違和感を覚えそうですが、そのやり方こそが自己観察であったりします。つまりエゴを対象化して切り離す。切り離したということはそれを行った主体があるわけで、それが所謂、本来の自分(別の領域)です。(別の領域も自分という意識ですから個人的には記憶などが蒸留されたエゴだと思っていますが便宜上)。
そして自分さえもしっかりと対象化した時にはじめて視界に見えている森羅万象は外側(景色)となります。今あなたがスマホでこの記事を読んでいるのなら、そのスマホを持った手はあなたではなく外側になります。もちろん肉体だけではなく、「何言ってんだコイツ」というあなたの思考(心の声)すらも外側です。何からの外側かと言えば、そうです、本来の自分(別の領域)からです。
では本来の自分とは一体どこにあるのでしょうか? 感覚としてはその見えている視界(景色)のこちら側ですよね? 景色を観測している意識。するとその意識とは何なんでしょうか? なぜ我々は意識があると認識できているのでしょうか? なぜかと言えば、景色を観察できているからですね。つまりはその景色こそが皮肉にも意識の存在の証明となっているわけなんです。景色(現実)は意識があるから存在し、逆に意識の存在は景色によって証明される。この表裏一体関係。これが「自分=世界」と言われるものです。つまり視界(現実)の中で分離を起こさず(私と他人を分けず)全てを対象化すれば(全てを外側に置けば)、パラドックス的に全てが内側になるのです。
で、体感としては全てが内側ではなくこの自分の肉体と思考すらも外側と認識する、景色の一部として眺めることの方がすんなりと入ってくるのではないかという提案なのですが、何か新しいことを言ったつもりが体感系のメソッドをややこしく記事にしただけという結果になりました。