つい先日、ある読者の方から応援のお便りをいただきまして、「〇職さんはセミナーなど商売に手を広げず、ブログ一本だけで語っておられるので信用ができます」的なお褒めのお言葉(?)を頂戴しました。最近は廃墟ブログと化していて心苦しいですが、ありがとうございます。
まあ「商売=信用できない」というのはある種の関連付けではありますが、私の場合は読者の方にそのような無用な不信や雑音を与えないためにもお金を取るという行為は避けている面もあります。避けているというか、今後も絶対にやりません。
ただ、どこかの記事でも書いたように、他のスピリチュアルマスターの方が有料のセミナーやメルマガでお金を稼ぐことを悪だと決めつけ否定することはありません。それもお金を稼ぐ手段の一つですから。
それでも私が仮にお金に困るようなことになっても人の心に付け込むようなことは決して致しません。私は真っ当に官能小説を書いて、皆さんにエクスタシーを提供する対価としてお代金を頂くつもりであります。実は既にタイトルは決まっていまして、『バキュームな夏』で行こうかと思います。あら、何だかどこかの達人みたいになっちゃいました、トホホ。
余談はこの辺にしてと、私は頻りに在り方を変えれば全てが変わると申してきましたが、業界歴が浅い人の中にはどうも自分の在り方がいまいち自覚できないという方がいるかと思います。
在り方の自覚とはそう難しいものではなく、極端に言えば思考の着地点があなたの在り方になります。例えば、「お菓子を買いに行こう」という思考が沸いてきたとします。するとあなた「お菓子を買いにいく」在り方となります。買えることを前提にした、充足な在り方です。
次に「車が欲しい」という思考が湧いてきたとします。するとお菓子の時と違ってその後に「あ~、お金がない」という思考が瞬時に湧いてくるはずです(湧いてこない人はたぶんこのブログを見ている人では少数派ですよね?)。この思考の着地点である「あ~、お金がない」というのがあなたの在り方となります。つまり不足の在り方ですね。
で、要はこの「あ~、お金がない」という思考を変える、あるいは消して、「車が欲しい」だけで止めることができさえすれば、自ずと世界も変わっていきます。では、そのためにはどうするのかと言えば、何千回と言ってきたように気付くだけです。
この気付くですが、まずはそのような「あ~、お金がない」という反射的な思考を対象化して客観視することです。そしてその思考が何の反射かということにさらに掘り下げていきましょう。
何に対する反射なのかと言えば、記憶ですよね。貧乏な「潜在スピ子」というあなたの個人史です。でもですね。この個人史を証明するものって何一つないんですよね。
「いやいや、自分の記憶や免許証、アルバム、友達に聞いても私が誰かを教えてくれるし」ってまた反射的な思考が湧いてきますが、でもですね、それも主観による関連付けなんですよね。関連付けることで「無」から「個人」を作り出しているわけです。
仮にその証拠とやらで、そこらに歩いている猫に説明できますか? できないですよね。言葉や文字でさえも人間世界の関連づけを行わない猫にとってはただの音や物質で、何か意味を持つものではありません。言うなれば、この猫の在り方が「今」であり「無(俗に言う別の領域)」です。
すなわち「あ~、お金がない」という思考の発生元だった個人史なんてものは実はなく、「無」だったんです。「無」からあなたは瞬時に虚構の個人史を持ち出し「あ~、お金がない」自分を創っていたんですね。あなた「無=今」から、不足でありますが在り方を創れたんです。そしてその在り方を通して、世界をそのように色づけていたんです。
「無」から不足な在り方が作れたんですから、どうせな充足な在り方を創っちゃえばいいじゃないですか。
「でも、現実には口座にお金もないし…」。わかります。現実は超リアルに眼前に広がっていますよね。だから、「今=無」に戻るんです。個人史の虚構を看破すれば自動的に「今」に入れます。「今」にあれば個人史が消滅しているので、そこに「潜在スピ子」はいないし、「潜在スピ子の口座」も存在しません。そこにあるのは肉体と冊子(通帳)らしきものがあるだけです(感覚的な話ですが、実践すれば徐々にわかって頂けると思います)。
個人史に束縛されなくなった意識は全くの自由ですし、ただそこで理想の在り方を選択するだけです。思考の終着点が虚構であることに気付くだけです。気付けば因果を超えて「今」に決定権があることも理解できます。瞬間的に全てを体感できる人もいますが、そうでなくても気付くことを癖づけていけば必ず在り方は変わっていきます。