「自分=世界」 思考停止

〇職さん、感覚を言語化しようとしてパニック状態に陥る!!

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勝利先日、米国で中間選挙が行われました。上院では与党共和党が勝利したものの、下院では野党民主党に過半数を奪われ、議会でねじれ現象が発生してしまいました。この結果を受けて、トランプ大統領は声明を発表し、強がりなのかホンネなのか「完勝」という言葉を使用しちゃいました。仮に下院でも勝利していた場合にはどんな表現を使ったのでしょうか。デイリースポーツがよく阪神勝利時に使う「爆勝!!」という言葉を使ったのかも知れません(ちなみに私は特に虎党というわけではございません。虎党の皆さん、ネタにしてすみません)。それにしてもこのねじれ現象を意に介さず、堂々と完勝と言っちゃうトランプに私は潜在意識の神髄を見たような気がしました。

何が言いたいのかと申しますと、内面と現実にねじれがあっても「完勝」と言い切っちゃえばいいということです。ただ、なかなかねじれがあるとエゴちゃんは言うことを聞いてくれないので、前々回「現実と内面は直結しないが、景色と内面は直結している」(キリッという名言が飛び出したのですが、カッコつけただけで、いまいち反応が悪かったので、改めて説明しようと思っていたところに、(青さんだけに青色です)さんからタイムリーなご質問を頂きました。

はじめましてと言いながら不仕付けで申し訳ないのですが・・・
前々回の記事を読んで何か心が揺さぶられたものの、
よく分からなかった個所があったのでコメント致しました。

>私たちの眼前には景色が流れています。この景色は本来、私たちが俗に言う現実ではありません。>〜この見て触れるとは知覚であります。知覚とは「あー、俺は日差しの温もりを感じたい」と思う
>までもなく、日差しに当たれば自動で発動するものです。つまり、そこに意思がないわけです。
>思考も同様で、〜つまりただの反応が現実でないものを現実としているのです。
ここはついていけたと思っています。。

やめれば自然、景色に「現実」という意味付けはなくなります。しかし、目の前にはまだしっかり>と景色はあります。〜
>しかし、その景色が見えているということは認識だけは確かにあるということです。
ここで、景色に「現実」という意味付けがなくなっても目の前に景色が見えているのは認識があるからだ!とならず、目の前に景色があるのだから視覚という自動反応によって目の前に景色が見えているだけでしょう・・・となってしまいます。。

これは実に真っ当な疑問であります。と言いますのも、私が言葉足らずだったからであります。まあ、ここは何となく感覚でいけるだろうと私も手を抜いて書いていたとこなので(当然、感覚で理解できた読者の方もいらっしゃると思いますが)、私の拙文をより目を凝らして熟読されている真面目な方にはひっかかるポイントでもあるかと思います。

前々回までのお話は思考の全てを却下するというお話しでした。もう一度具体的な例を出して振り返りましょう。それでは「好きなあの子が男と歩いている」という現実があったとします。

ここで「男を恋人だと勝手に判断しない」や「恋人だとしても自分とその子が結ばれることに何ら影響はない」とするのはいわゆる関連付けの放棄でありますが、全ての思考を却下するというのは、「好きなあの子が男と歩いている」という現実(思考)の認識さえも意味を持たせないということです。

前々回までの記事で語弊がありましたのは思考と同じように視覚(知覚)も却下するような書きぶりをしてしまった点です(たぶん)。視覚も含め、知覚はその器官がある限り、当然に却下できません。だって自動ですもの。私がお伝えしたかった真意を厳密に申せば、「思考によって定義された」知覚の却下ですね。おそらくここに読者の方の混乱の基があったのではないかと思います。

これを説明すると少しややこしいのですが、視覚でもって例に出しますと、「視覚に基づく『エゴ目線での景色の認識(=現実)』」という思考の却下(思考の観察など)ではなく、全ての思考の却下は「視覚=我々が生きている世界」というその思考すらの放棄です。ざっくり言えば、知覚で認識していることを世界だと定義付けているその大前提(思考)の却下(放棄)です(ざっくり言った方がわかりやすいかも)

※あらかじめ言っておきます、以下の文章からは「思考の観察(今にある)」の説明となってしまいました。書き直すのが面倒+力作なので、そのまま掲載します。

つまり、思考や知覚を却下(観察。却下でも問題ないですが)したところで、依然思考はずっと湧いてきますし、知覚においても見たり触ったりすれば、当然、目に映ったり肌で感じたりします。ではなぜ却下(観察)することに意味があるのかと申しますと、おわかりだと思いますが、「自分という意識(自分=世界)」との同一化から切り離すということに尽きます(同一化するとエゴになります)。却下(観察)とはすなわちそれを対象化していることで、そのエゴから脱却した視点(自分=世界)で眺めると、「エゴ(思考、知覚)が認識していた因果のある」現実は消滅し、「エゴが認識していた因果のある」現実が景色となると言っているだけであります。で、この景色の意味です。

>しかし、その景色が見えているということは認識だけは確かにあるということです。
ここで、景色に「現実」という意味付けがなくなっても目の前に景色が見えているのは認識があるからだ!とならず、目の前に景色があるのだから視覚という自動反応によって目の前に景色が見えているだけでしょう・・・となってしまいます。。

エゴ(思考)を却下(観察)したところで当然、そこに何やら景色があり、音があり、肌に風も感じます。それら全てを含めた総称を便宜上「情景」と呼びます。この情景には湧いてきた思考や知覚さえもそこらの道に落ちている空き缶や空に飛んでいるビニール袋と同じように「自分の」という所有の概念がありません。景色(視覚)、音(聴覚)、温度(触覚)、落ち葉、全てが対象化かつ均一化されています。なぜなら思考を却下(観察、対象化)しているので、自己(個人=エゴ)という思考すらも消滅しているからです。ただの情景があるだけです。

あるだけ。「ある」ということは誰かがそれを認識しているからあるわけです。それがいわゆる「主体的な意識」となるのですが、それはどこにも姿が見当たりません。でも確かにある。では、その存在を証明しているものは……逆説的ですが、その情景だけです。つまり、対象(情景)を認識している主体(主体的な意識)が対象そのもの(情景=主体的意識)であるということです。パラドックスみたいですが、これが「自分=世界」です。

……あ、ちがう。これは(記事の後半以降)は「今にある」や「思考の観察」の説明でした(この時点で伝えたいことと違うことに気づきました)。全ての思考の却下はこれとは少しニュアンスが違うのですが、ただ根は同じなので一概に違うとも言い切れません(故に混同しました)。私の伝えたかった思考の却下とは深く突き詰めていけば、自愛方面に近いアプローチでした(書く前に頭を整理すべきでした)。つまり、エゴ的な見地のものです。すみません、支離滅裂になってしまいました(これは前々回も混同していますね…)。次回に練って出直してきます。とりあえず、質問にはしっかりお答えしたとして、チャンチャン。

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