最近私にあったプチ願望実現のお話をさせて頂いてもよろしいでしょうか? いつかの記事で、自宅から20分ほどの創作居酒屋でおでん盛りを注文すると、ことごとく私の好きな具材が除外されるということを書いたのですが、それが先日とうとう私の好物である「大根」が盛り合わせの中に紛れておりました。まさに「願望=実現」、パチパチパチパチ。好きなものだけを単品で頼もうかとも考えたのですが、盛り合わせだと数十円がお得になるのと(未だに私は貧乏性です)、さらには店側がおでん詐欺を働いているのではないかという黒い疑惑を調査するためにも、あえて盛り合わせを貫いた次第であります。
これでおでん詐欺の線は消えたのでありますが、「たまご」と「しらたき」に関しては依然そのご尊顔を拝見することが叶わず、「まあ、大根があるからよしとするか」と私が寛容の精神を示そうかと思ったその矢先、あの具材が私の目に飛び込んで参りました。
ゴボウ巻き……
一時期のミュージックステーションにおける「光GENJI」ばりの常連ぶりを発揮しやがって、コノヤロー……。なんでゴボウ巻きを咥えながらゴボウみたいな店主の顔を拝まなきゃならんのよ。食べログに「世界初のゴボウ専門店」と書いてやろうかと思いましたが、未だにゴボウ巻きだけは打率十割をキープしています(店の料理自体は美味しいです)。
さて、前回に混乱した思考の却下について、言いたかったことはほぼほぼ「現実が消滅すればそこは直結(願望=実現)の世界!!」に書いてあったのですが(観察との混同もなさそうですし、たぶん)、それに続けて私がもう少し強調したかったことは、これには余りテクニックがいらないということです。
出てくる思考を止めるだとか俯瞰するだとかはちょっとした慣れが必要だとは思うのですが、思考の却下はエゴの立ち位置から始められ、そこから自愛的な感じで出てきたものを無下に取り下げるだけですから、テクニックというより意識づけ(根性)で対処しやすいのではと思います(観察も似たようなものですが、思考と距離を取ることが難しい人も中にはいますので)。
思考とは自動で起こる対象への定義で在ります。自分への定義であり(「自分」を定義できるということは、その定義は対象化されていないとできないことですから、定義された「自分」は本来の自分ではないということの証明ですね。話がズレるので深入りしません)、また世界への定義でもあり、さらには自分(自己)があるから世界(対象)があるというシステム(構図)への定義でもあります。
往来に人があり(視覚)、喧騒が聞こえる(視覚)、だから現実があるという、この「自分の(と思っている)知覚」に基づいた世界観が、そもそも思考なのです。そういった自己があって対象があり、「見える、触れる、だから現実」という無意識中の無意識である大前提の世界観(思考)を却下すれば、どうなるでしょうか。
却下した主体(意識)だけが残り、後は無に帰します(詰まるところ、「今にある」や「観察」と同じ境地ですが)。もちろんそこにはまだ情景はあるでしょうが、全ての因果(思考のフィルター)がないわけです。ただ、意識(内面)だけが独立しているような(厳密には情景も内包していますが)、それでいて意識だけしかないような、絶体的な主体性を持った感覚……そんな体感です。
こんなことを書いていながらですが、あまり字面を追わず、フィーリングで流し読みする程度でいいかと思います。「あ、こういう感覚か」と思った時に、わざわざ私の言葉と照合せず、そのフィーリングを優先してください。そういったフィーリングは基本正しいですから。
ということで、この頃はややこしい話ばかりでしたので、次回からはまたシンプル路線に戻りたいと思います、たぶん。