そういえば先日、奈良県を観光で訪れまして、東大寺などを拝観してきました。東大寺といえば皆さまご存知、大仏さんですが、私はその前に構える南大門の運慶快慶作、金剛力士像の威容に目を奪われてしまいました。そして、金剛力士像といえば、そうです、女優の剛力彩芽さんですね。その剛力さんと『ZOZOTOWN』の前澤友作社長との交際報道が何やら物議を醸しているそうです。ポエムニスト御用達のヤフーニュースによりますと、ファンをなおざりにした剛力さんのあけっぴろげな交際アピールが世間の反感を買ったらしく、どうもボーイッシュで清廉なキャラとのギャップがより波風を立ててしまったようです。
私はファンでもありませんので、恋に浮き立つ乙女の姿は微笑ましくも映るのですが、剛力さんは周囲の批判を真摯に受け止め、過去のインスタグラムの全投稿を削除したそうです。そんな剛力さんにエールと言いますか、私が人生の先輩としてアドバイスできることは、
ランチパックは飲み物なしでは喉を通らない
ということくらいですかね。いつかテレビでランチパックのみを口に含んでいる姿を拝見しましたので、少し気にかかりました。
さて、今回は私が記事に書こうと思っていた内容に沿うドンピシャなご質問を読者のジンジャエールさんから頂いたので、それにお答えしたいと思います。
〇職さん初めまして。ジンジャエールと申します。ちょいちょい挟んでくる小ネタに同世代の私にはヒットしまして、声を出して笑っております。
さて、私も廃人歴10年以上のベテランでして知識だけは豊富にあるのですが、いかんせん願望実現は満足にいっておりません。ですがブログに出会ってから3週間の間に臨時収入100万円が入ってくることになりました。ただの会社員には今までこんなことはなく驚いたのと同時に、それが世界というものだよなあという感想です。世界が充足するのは当たり前だよなあと。
現実は内面の投影というのは耳タコですが、いざ内面の充足を感じてみても、段々それがつまらなく退屈に感じてくるのです。だから現実に対する反応(不足)に戻り、はっと気づいて内側の幸せや充足を感じるのですが、やはり退屈に感じ気づけば不足に戻っております。きっと不足が楽しいのでしょうね。この状態を何年もループしておりまして、本願が全く叶いません。
〇職さんは理想の自分(無職セレブ)になったときの解放感を感じるようにしていたとのことですが、基本ずっと感じていたのでしょうか?私は本願が叶い理想の自分になったときの幸せや喜びを感じていても、すぐに飽きてしまうのです。ユーモアと知性のある〇職さんの文章から推察するに、会社員時代もきっと優秀だったのでしょう。〇職さんの〇の中にはきっと夢がつまっているのでしょうね。
〇の中に夢……。まさに「夢職(むしょく)」ですね。なんだか含蓄のある言葉に変容いたしました。ありがとうございます。
ご相談の趣旨は、内面で理想の自分になり充足に浸ってみても、すぐにつまらなくなって、またいつもの不足の立ち位置に戻ってしまうということですね。直接的な私への質問としましては、常にウッキウッキを感じていたのかというものですが、さすがに常にというわけではありませんでしたが、なるべく意識するようにしていました。ある程度まで徹底していきますと、自然な在り方として定着していきます。
ただ、充足そのものを無理に創出して感じるというものではなく、今この瞬間、この世界が理想であると意識の立ち位置を変えた時に自然と湧き上がってくる副次的な充足のことです。もし、無理に「充足」「充足」と気分や感情を追い求めているようでしたら、その前提となる在り方に注意するように心がけてください。
その上で当時の私と現在の私とでは少し認識も異なっていますので、今の私が思うところは、その時々で在り方(=世界の属性)を確認するだけでもいいかなという感じです。理想の自分のイメージを過度に意識してしまいますと、「理想であればこのような喜び(充足)を得ているはずだ」「つまらないということは叶っていないんだ」と関連(条件)付けを行ってしまう恐れがあります。スピリチュアルなアプローチを意識する余り、無意識に「~だから叶っている」「~だから叶っていない」と一定の条件下で自分の在り方をコロコロと変えてしまっているのです。つまり、在り方に境ができ、一貫性が崩れてしまっているのです(一応の原則論です)。
ですから、つまらなくても、現実に反応しても、気の向いた時にそれすらも叶っているという立ち位置を前提にして眺めてみるのです(叶ってしまえば実際、刺激はなくなりますし)。前回のお悩み相談で言うところの「思い出す」であり、また「自愛」でもあります。思い描けるという時点で、叶っている世界は既に在りますので、それを求めて創ろうとするスタンスではなく、在る(叶っている)が前提であると確認するだけです。
イメージとしてはオセロで、それを確認をした時点で、過去に確認した時点との間に点在している叶っていないと認定していた現実や思考など全てをひっくるめて、サーッと黒(ない)から白(在る)に裏返って、一面が白(叶っている)になり、境が消滅する感じです。これは、無意識に敷いていた「ない」の前提を引き剥がして、その場所にそっくり「在る」を敷き直すということなのです。
結局のところ、今回、私が申し上げたかったことはこのオセロのイメージでありまして、そのためにお悩み相談と称しながらやや我田引水的な記事になってしまった感はあります。