内面が世界を作っているわけですが、その私たちの内面はほとんど記憶によって支配され、操られています。何かを認識した時に、この記憶というヤツが経験則に則って勝手に「良い」とか「悪い」とかを判断し、果ては「ある」とか「ない」とかも分別するわけです。
「記憶」とは厳密に言えば「(人間としての個人の)記憶」ですから、記憶を抱えたままでは分離した価値判断しか行えず、一人の人間というところから出発した狭い世界しか見ることができません。
例えばニートのAさんがいたとして、そのAさんが車が欲しいと思ったとしても、自分はニートだという記憶から「あー、俺にはとてに手が届かない」という価値判断をしてしまい、それが世界に反映されるわけです。
しかしここでAさんの頭から記憶を削除してしまえば、「買えない」という価値判断がなくなります。では「買える」という価値判断になるのかと言えば、厳密にはそうでもなく、「欲しい」という念(意図)みたいなものだけが残るわけです。ではなぜ欲しいと思うのかと言えば、運転した時に満足感(充足)が得られるとわかっているからなんです。すなわち、それを既に体験しているんです。なぜなら、体験していないとその充足を知れるはずがないからです(記憶=エゴはこれを妄想だとしか認識できません)。つまり「欲しい」という念があるということは、既に「充足(既に体験)」が在るということと同義で、そしてそれを「どこだよ? 見えねーじゃねーかよ」と否定してきた記憶(エゴ)もいないがために、それがダイレクトに世界に現れることになります(自分が世界なんで、叶った状況そのものになる感じ)。
どうしても感覚的な話になると、なかなか言葉のチョイスが難しく、禅問答のような迷路にはまっていくのですが、実態はそう複雑なものではなく、自分(記憶)がいなけりゃ、不足のない思いだけが残り(充足)、それを否定するヤツ(エゴ)もいなくなるから、充足は在るしかないよねという、構造的にはごくシンプル(?)なものです。とにかく記憶というものを意識的に排除しながら(=今にある)世界を眺めていけば、今までの価値判断が必ずブレてきて、体感も起こりやすいかと思います。
この業界で時折言われる「赤ちゃんになれ」という格言もつまりは記憶を失くすと同様のことで、赤ちゃんプレーが得意な人はその方向性で没頭してもらっても結構かと思います。