アルファポリス

「今」にある 「自分=世界」

私も疑問だった、何で思考を止めりゃ願いが叶うの!?

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おでん自宅から約20分の所に、2年ほど前からこじんまりとした創作居酒屋が営業しているのですが、私はいつもそこでおでんの盛り合わせを注文します。最近は歳をとってきたせいか、子供の頃には決して好きではなかったおでんのあの濃くもないやさしい味が私の舌にマッチしてきたからであります。その店でおでん盛りをお願いすると、大将がその日の気まぐれで単品メニューの中から5種を選んで提供してくれるのですが、その選択権は客側にはなく、私は過去4度その店に足を運んでいるのですが、私の好物である「たまご」「大根」「しらたき」とその盛り合わせの中で巡り合った例がありません。

その代わり、なぜか好きでもない「ゴボウ巻き」だけは常にカラシとともにしれっとトッピングされているので、私は店側のおでん詐欺ではないかとも疑っているのです。ただ、大将の顔を見ると、どこかゴボウに似ているので、無意識にゴボウ巻きにシンパシーを感じ、つい盛り合わせの中に組み込んでしまうのかも知れません。確かにそういう意味では大将の気まぐれであると、自分に説得を試みている次第であります。

さて、今回は少し導入部分として、おまめ電球さんからのご質問にお答えします。

思考を止めるのは、思考の後ろ(バックを取る)後ろへまわることとニアリーイコールで
okでしょうか。
たとえば、希望の自分とは違う自分になっていたことに気づき、「あ、違った。こっち
だった」というような思考に対してもバックを取っていく感じでしょうか。


個人的にはニアリーイコールだと思います。結局のところ、スピリチュアルというものはある側面から言い換えれば、いかに不足が幻想だと見抜くかだと思います。

思考を止めるに関しては、実際に思考自体を止められるに越したことはないですが、最低限としてはエゴ的な思考(不足)をなるべく止めるだけで十分なのです。つまり、思考の中に不足が混じってきたら、それに気付き、スパッと止めるだけです。つまり、これは思考の観察、そのバックを取ることですのでニアリーイコールだという考えであります。

まず思考自体を止めれば、不足も思考の一部ですので、不足が芽を出すことがありません。つまり思考というものがなければ、それ自体に実体がないことがこのことからも理解できるのです。そして思考のバックを取るということは、まずはそれに気付き対象化することから始まります。対象化できるということは、それが本来、自分とは別個のものだという前提があるからです。つまり、不足は自分ではなかったということです(厳密には自分の一部とも言えますが)

ここで少し、話を思考自体を止めることに戻しますと、なぜ思考(不足)を止めれば願いが叶ったり最善が訪れたりするのかという疑問が湧いてくるかと思います。私も廃人時代に「思考を止めりゃ不足もなくなるけど、充足もなくなるんじゃないの?」と思っていたのですが、この疑問に対する回答は思考を止めてある程度「自分=世界」が体に馴染むと分かってきました。簡単に申しますと、充足の対極が不足ではなかったからです

少し感覚的な話で恐縮なのですが、「自分=世界」(全部在る=充足)というデフォルトの中に不足というピースも「在る」という構図なのです。「全部在る(揃っている)」という中で不足というピースを選択しなければ(見なければ)、それ以外は全てある世界(充足)なので、それがそのまま世界に現れるというだけです。ただ、廃人の皆さんは全部在る広大な世界で、やたらと点在する不足という小さなピースだけをガン見している状態なのです。

要は充足↔不足ではなく、充足>不足なので、不足が消えたからと言って、充足は消えないわけです。どうしても充足という言葉のニュアンス上、不足と対応されるように見えますが、充足というキャンバスの中に、ちょこっと不足の色が混ざっているだけで、キャンバス自体は全部在る(充足)なのです。

余談ですが、「ない」側から見ればその対極には「ある」とも言えるので、少し言葉にすると矛盾するような感じにもなりますが、私もこんがらがってきました。

 

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