「自分=世界」

心の範囲を突き止めれば「在る」しかないっしょ!?

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海中お金に関する願望をお持ちの方、あまりご自身の中で凝り固まったセレブ像を抱かないようにしてください。耳垢が砂金で涙が真珠、ウ〇チが金塊という体の構造をセレブがしているなんてのはただの都市伝説であります(漫画「おぼっちゃまくん」のネタです)。かく言う私も不労所得を得て何不自由ない生活にも拘わらず、スマホを大手キャリアから格安SIMに移行するという暴挙に出てしまいました。毎月約8千円を支払っていた利用料金が半額以下になり、私のセレブ振りにますます拍車がかかりそうです。ただ一つ気がかりなのが、「~@docomo.ne.jp」や「~@ezweb.ne.jp」といったキャリアメールが使えなくなったことです。「LINE」があるので今のところはあまり必要な場面に出くわしてはいないのですが、やはりあるに越したことはないような気がします。

それに私の世代ではキャリアメールと青春とは切っても切れない関係でありまして、如何に意中の女性とメールアドレスを交換するのかという恋の軍略を、夜な夜な練ること頻りでありました。そしてようやくゲットした彼女のアドレスには、人柄を忍ばせる可愛らしい文字列が並んでいたものです。しかし、必ずしも人柄とアドレスが一致するということはなく、私が社会人になってから、日々のパワハラで生命力が枯渇したような人と職務上メールを交換する機会があったのですが、そのアドレスが

wonderful-dreamer@~

という、二度見するほどそのキャラクターとは似ても似つかない単語がチョイスされていました。(当然、一部改変していますが、こんな感じでした)。人間という生き物の闇を垣間見たような気がしました。

さて、前々回の記事で何人かの方から、「内面に「在る」と描いたものが、現実においても「ない」と否定できなくなるのです」の部分をもう少し詳しく話してくれというご要望を頂いたので、土日が多忙な〇職ですが、取り急ぎ今回それについて書いてみたいと思います。

エゴの認識は基本的には現実から内面への一方通行であります。現実に何かが「在る」という五感の情報を通して、内面でもそれが「在る」という認識にいたるわけです。しかし、この方向が逆になると一転、エゴは拒否反応を起こしてその経路を遮断してしまいます。どうしてもエゴは内面だけで認識した(描いた)ものを、それが現実にも「在る」とは思えないのです。なぜ思えないのでしょうか? 理由は簡単です。エゴちゃんだからです。エゴが放つ世界との分離感がそのような認識を強要するのです。


 

この分離感は肉体(五感)を根拠とするところが大きいのですが、私自身の感覚では、心の範囲の錯覚に寄るところもあるのではないかと考えています。「心の範囲って何ぞや?」と思われた読者の方、心配なさらないでください。私も三十幾年が経過した人生で今初めて使用した言葉であります。感覚的な領域を強引に言葉に落とし込んだ結果が先の言葉でありまして、つまり何が言いたいのかと申しますと、心という実体のないものを皆さんは肉体の内側だけに閉じ込めていませんかということなのです。皆さんは心の住処を漠然と頭や胸のあたりにあると錯覚して、その心(内面)も肉体的な感覚と同様に世界に対して壁を作っているのではないでしょうか。

心の位置がどこにあるのかは観察してみればわかるのですが、特定の場所にはないんですね。視界があるのでどうしても肉体が主観になり、そこに心があると勘違いをしているだけなのです。では、どこにあるのかと申しますと、どこにもありません。なぜなら、自分や他者を含めた世界の全てを覆い、漂っているのが心だからです(少し感覚的な表現ですが、伝わりますかね)今見えている世界そのものが心と溶け合っているのです。例えれば、海(世界)そのものが心(自分)であるのに、一部の水域を心と思い込んでいるようなものなのです。しかし、海の中は全てが水なのですからそこには境界などはなく、心も世界も一体なのであります(「自分=世界」)

ですので、そこに墨を垂らせば当然のように全体に浸透していくわけですから、心には「在る」が現実には「ない」という論理の正当性そのものが、そもそもおかしいのであります。

-「自分=世界」

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