先月の話なんですが、世界遺産「平等院鳳凰堂」を拝観するために京都の宇治へ行ってまいりました。拝観料とは別途志納金を払って鳳凰堂内にある「阿弥陀如来坐像」を間近に拝ませてもらったのですが、聞きしに勝る定朝の傑作に圧倒されてしまいました。定朝とは平安時代の大仏師で、寄木造り(造仏の技法)の完成者であり、そのデザイン性から大陸の影響を脱した和様の大家として、日本仏像史にその名を深く刻んでおります。この平等院の阿弥陀如来坐像は定朝の現存する確実な遺作と言われており、私が何に圧倒されたかと申しますと、その絶妙なデカさでした。
奈良・東大寺の廬舎那仏(大仏)はデカすぎて仏像というよりはもはや建造物感が強いのですが、平等院の阿弥陀像は丈六といわれ、釈迦の身長が一丈六尺(約5m)という伝承に基づき、坐像ですのでその半分、約2.5mの像高となっております。これが絶妙なのです。威容を与えるには小さすぎず、それでいて仏像としての芸術性を逸脱しない大きさ。柔和で繊細な造形から放たれるその仏性は、一見の価値ありと思われますので、まだ拝観されていない読者の方、京都にお立ち寄りの際は平等院を覗いてみてはいかがでしょうか(断っておきますが、私は京都の人間でも、ステマをしているわけでもありません)。
……しかし、お釈迦さんにもそのような辛い過去があったんですね。私も試しに自分の身長が5mであったならばと少し空想に耽ってみたのですが、そこまで度を超えたデカさになりますと、もはやバスケットのバの字すら出ず、気付けば洞窟に猛ダッシュし、泣きながら「悟り」を求めておりました。空想でよかったです。
当ブログでは一応「悟り」を「認識の変更」と言い換え、「認識の変更」とは「願望が願望であることを保てない」という実感だと定義しました。その実感は「自分=世界」と同義なのですが、私は当初より認識の変更を求める必要はなく、原則、願望実現だけを見据えて取り組むことを推奨してきました。
「コンボで『認識の変更』!!」の記事でも触れたのですが、「自分=世界」というのは、知識や実感の有無に関わらず意識ある全ての人にとっての大前提であります。ですので、「自分=世界」を信用できなくても、信用できないという世界が広がっていくだけで、見事に「自分=世界」は適用されているわけです。逆に認識を変更した人にとりましても「自分=世界」が土台でありますので、「自分=世界」を実感しているという世界が展開しているだけなのです。
つまり、何も認識の変更をしたからといってそれ以外の人たちと住んでいる世界の次元が変わるというようなことはなく、同じルールの中で宇宙を遊泳しているわけです。ですので、何か願望が内面に湧いてきた時、それが現実に投影されていくプロセスは万人に共通しているのです。ただ、そのプロセスにエゴの障壁を挟むか挟まないかの違いがあるだけです。
と、上記のような説明を目にして、読者の皆さまは何を思われたのでしょうか?
おそらく、「なるほど。やっぱりエゴは曲者や。〇職はん、エゴを観察するために先に失礼するやで!」的なことだと思います。でも、ここで少し立ち止まって考えて頂きたいのですが、なぜそのように思うのですか? なぜエゴを対処しようとするのですか? 「何でって、〇職はん。アンタがエゴを観察せえとか言うからやないか。すまん、邪魔せんといてくれるか! ワイ、今ごっつ自分の思考を観察できとるねん! もうEXILEはそこまで来とるやでー!」
えっと……つまり、それって
今はまだ叶っていないという立ち位置
じゃないんですか? そして、その立ち位置が
現実になっていませんか?
続きます。