いやぁ、知りませんでした。コンビニ業界が生き残りのために業務を拡大しながら日々進化を遂げていることは肌では感じていましたが、まさかデートスポットと化しているとは私の想像の範疇を超えておりました。先日、私が最近お気に入りのフ〇ミコ〇を買いにフ〇ミリー〇ートへ入店したのですが(フ〇ミチ〇よりコスパがいいので乗り換えました)、あいにくショーケースを見ると売り切れているらしく、仕方なく他のものをと店内を物色していましたら、椅子とテーブルを備えたイートインスペースで若いアベック(死語?)が肩を寄せ合い、いちゃついておりました。「おいおい、ここはUSJじゃないぜ……まあ、これも世代の違いか。かわいいもんだ」とやり過ごそうとした瞬間、女の手にフ〇ミコ〇があるのが目に入り、その瞬間、私の中で何かが弾けました。
「デートの時くらいもっとマシなものを食え、このバカちんが!!」
無論、これは心の声であります。ラス1のコロッケを奪われたポエムニストの恨みが思わず大噴火してしまいましたが、最近の若者はどうも節約志向が強すぎるようです。フ〇ミコ〇は基本、中年〇職の食べ物なので、なるべく購入は控えるようにしましょう。
さて、ストーンさんは何やら新しいアプローチを見つけたそうなので、予告しておりましたご質問の回答はその弊害にもなりかねないので、さらりとだけお答えしておきます。
自愛と認識変更を同時にやるのは難しいですかね?
どこかの記事で書いたと思うのですが、自愛をしている時点で基本、巷で言われている「認識の変更」の在り方に近いですし、また自分を責め続けていた普段の在り方からも脱却していますので、前回に申し上げた「設定」も切り替わっています。ですので、ほぼ自愛=認識の変更と捉えてもらっても結構でございます。
自愛は感情や思考に対して許し、肯定していくことですから、結局はそれらを対象化していることと同義なのです。すなわち自愛とはエゴからのアプローチであるとともに、無意識にそのエゴと距離を取っているわけですから、ある意味、思考の観察も兼ねているのです。
この思考の観察に関してはあまり効果が感じられないという人がいるかと思いますが、それはおそらく思考を観察した時に、「観察したけど、これでどうすんの?」というそこにさらに追撃してきた思考を観察できていないためだと思われます。その思考を観察しないためには、いつまでたってもエゴのポジションから離れられず、堂々巡りに陥っていくばかりであります。ですから、思考を観察したその時、そこでさらにエゴが囁きかけてきた声にも気付き、そのバックを取っていくのです。
このバックを取るという表現ですが、このブログの常習者の方ならお気づきかと思いますが、自愛で度々使用している表現でもあります。無限にあふれ出てくる思考や感情に対し、その都度無条件に許していくことを表したものです。あふれ出てくる思考などは無限ではありますが、観察や許しを行っていくうちに、そこに何やら果てがあることを感じることができます。その果てとは思考や感情の果てではなく、それらに囚われていた「在り方(エゴ)」の果てであります。
観察や許しを行っているうちにその立ち位置にだんだんと意識が馴染んでいき、思考や感情に対して逆に同化することができなくなっていくのです。これが所謂、「自分=世界」や「ニュートラル(別の領域)」といったもので、自分がそのまま世界という解放感や自由を実感できます。
つまり、思考や感情は無限ですが、エゴという在り方は有限なのです。ですから、自愛にしろ観察にしろとにかく単発で終わるのではなく、そこからしつこくコンビネーションを重ねることが肝要なのです。初めは慣れないかもしれませんが、果てを感じるまで根気強く実践してください。
ちなみに今回は巷で言うところの「認識の変更」のお話しで、その路線でアプローチをされている方に向けた記事でした。