「自分=世界」 俗に言う「認識の変更」編 思考停止

現実と内面は直結しないが、景色と内面は直結している!!

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トンネル実は前回の記事を投稿しました後、4、5回ほど表現や言葉を修正して投稿し直していたことに気付いた方はいらっしゃいますでしょうか? 心当たりのある方、あなたは重度の当ブログ中毒者です。今すぐ「〇〇〇〇〇〇ェ〇」さんのブログ(まとめ?)に通院しましょう。冗談はさておき、なぜリライトしていたのかと申せば、自分の伝えたいことがどうもうまく言語化できず四苦八苦していたためであります。ですので、今回はもう一度、前回に書いたことに補足と言うか続きと言うか、そういったあたりのこと取り急ぎ書いてみたいと思います。

例えるなら悪夢にうなされて目が覚めた時に「は〜っ。なんや夢か。良かった〜」な感じを「は〜っ。なんや現実か。よかった〜」な感じにすればいいんですね。

これは読者のkuroさんのコメントなのですが、まさに秀逸な言葉であります。夢を内面、目覚めた世界を現実として、その境なんてないよということ示唆された一文です。

私たちの眼前には景色が流れています。この景色は本来、私たちが俗に言う現実ではありません。「いやいや、見て触れちゃうんすけどwww え、これってバーチャファイターなんすか?」。この見て触れるとは知覚であります。知覚とは「あー、俺は日差しの温もりを感じたい」と思うまでもなく、日差しに当たれば自動で発動するものです。つまり、そこに意思がないわけです。

思考も同様で、ある状況下での反応に過ぎません。その反応を私たちは「自分」だと定義付けています。そう俯瞰してみると、笑っちゃうくらいに「自分」とはファジーで実体がないものなのです。その「自分」と思っているただの条件反射が、目の前に流れている景色を「現実」と定義づけることで、我々が日々あくせくする現実が出来上がるのです。つまりただの反応が現実でないものを現実としているのです。「現実」すらもただのレッテルなのです。勝手なことしやがって、許せません!!!!


ですから、その反応をとことんやめる(却下する)だけです。それはすなわち「自分」をやめるとも言えますが、先述しましたようにエゴの言う「自分」なんてものは同じことを繰り返すだけの機械みたいなものですから、愛着を湧かせるなんてのは滑稽です。ポイしちゃいましょう。

やめれば自然、景色に「現実」という意味付けはなくなります。しかし、目の前にはまだしっかりと景色はあります。前回、申しました現実の消滅とは、景色が真っ暗闇になるということではなく(真っ暗と捉えることも有効かもですね)そこにただ意味付けされていない(ニュートラルな)景色があるという状態のことです。

しかし、その景色が見えているということは認識だけは確かにあるということです。おわかりの通り、この認識(視点)が「自分=世界(別の領域)」というヤツです。ここからがなかなか言葉にしづらいのですが、現実という干渉、思い込み(因果がないと変化しない)がない景色は認識そのもの(直結)ですから、意図すればすぐにその通りに景色は揺らいでいきます。あまり、皆さんのエゴを刺激するのも何ですが、その立ち位置から意図すれば、本当にびっくりするぐらいに変化します(現実の干渉があっても変化しています。ただ、現実の干渉があればある程度の順序を通らなくてはならないので、これがタイムラグとなるのでしょうね)

一言で表すなら、現実と内面は直結しないが、景色と内面は直結しているという感じです。ですから、内面と外側には隔たりはないのです。まあ、そう難しく考えなくても、普段から皆さんは内面を外側(現実)との隔たりをなくし、それを世界に投影しています。

不足に限って

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