1810年の缶詰の発明から缶切りが登場するまでには48年もの歳月を要したそうですが、この故事からもわかるように、人間は常識や習慣が定着してしまうと、そこから逸脱することが困難になってしまいます。19世紀当時はおそらく「缶詰=オノやハンマーで開ける」という不文律が広く民衆に浸透していたため、缶詰に対して別の開封方法を模索するという意識すら発芽しなかったものと想像されます。それと同様に、私の頭はつい最近まで切手は水に付けて貼るものだという強固な常識に支配されていました。リーマンの新人時代、封筒に切手を貼っていくという極めて原始的な作業に従事させられたことがあったのですが、切手の裏に水を付けるという工程がやけに面倒だったことを覚えております。
それが先日、わけあって郵便局に切手を買いに行きますと、局員がさりげなく発した言葉に私は思わず膝を打ってしまいました。
局員「シールタイプもございますが」
〇職「……(シ、シールだと…?)」
ヤフってみますと、記念切手を除く普通切手のシールタイプは2012年頃から取り扱いが始まったらしいのですが、なぜ技術的には困難とは思えないシール化を21世紀の今日まで待たなければならなかったのか。私事で言えば、なぜ幼少の頃、『ビックリマン』シールを買った時に郵政省(当時)にそのアイデアを進言しなかったのか……。していれば、私は今頃「切手界のドクター中松」と崇められていたはずなのに、実に惜しいことを致しました。
常識という根が太いほど、その外に出ようとする意識さえ生まれて来ることは稀であります。我々にとっての最大の常識は自分が自己(個人=エゴ)であるということですが、その強烈なエゴの立ち位置からすれば、自分が世界とは分離した存在ではなく、常に一体であったなんていうことは発想すら出てきません。
しかし、私を含めここにいらっしゃる読者の方々は、その動機や経緯は様々にせよ、このスピリチュアルな世界に触れ、何やら自分が小さな存在ではなく、個を超えた何かであるということを少なくとも知識で知ることが出来ました。
つまりそれは、世界が自分に宇宙の真理らしきことを伝えるべく誘導していると捉えることができます。誘導されているということは、すなわち自分にはそれを掴めるだけの資質があり、資格があるということです。なぜなら、世界もまた自分(「自分=世界」)だからです。
現実において「自分=世界」という概念を見聞したということは、それ(「自分=世界」)すらも自分の中に既にあった(知っていた)ということの証左でもあるのです。「自分=世界」をただ知識として認知するだけでも、私は人生においてそれが大きな潤滑油になり得ると考えています。
読者の皆さんもこの業界に足を踏み入れた時点で、既に常識(エゴ)という殻に亀裂を入れています。「自分=世界」という言葉すら知らず、亀裂を入れることさえできない人が大多数な中、エゴに楔を打つことができたのですから、ぜひこのチャンスをモノにして頂きたく思います。