ついこの間、フランス人のサッカー選手が日本人を侮辱したなんてちょっとした騒ぎになっていましたが、そのニュースを聞いたほとんどの人が「許せん、ムキー!」となったかと思います。なぜなら、その侮辱された日本人という属性に自分も属していて、自分も侮辱されたと感じたからです。中にはシンプルに地球市民的な人権感覚から日本人云々よりも単に人種差別を許さないという意識高い系の人もいたかもですが、平均的な日本人の怒りとしては自己の属性から発せられたものだと思われます。
しかし仮に侮辱された人間が他国人、もしくは自分が日本人でなければそれほど感情は刺激されず、「相変わらずアジア人は見下されてんな」と俯瞰的な考察だけをするはずで、つまりは何かしらの属性があるからこそいろいろと思い悩むわけなんです。
この属性という意識がすなわちエゴで、そのエゴを看破した(日本人という意識は概念に過ぎないと観察)瞬間、不快を味わう主体がなくなるので、イライラから解消されるのですが、しかしまたどこかで自己の属性に関する不快な事柄に行き会えば、またイライラを始めてしまうんですね。
と言うのも、これはまた私たちの意識が知らぬ間にエゴの巣穴に帰っているからなんです。どうも私たちの意識は本来ならば空を自由に飛び回れるのに、なぜか隙あらばエゴの作り出す人物になり切り、一個人という小さな空間に引き籠ってしまうんです。つまり、この我々のエゴの巣穴に帰っていくという作業はあくまでも癖や習慣であって、宿命や真理じゃないということです。習慣です(重要なことなんで2度言いました)。
ですから、そのエゴの習慣を「自分=世界」の習慣に少しずつ改めていけばいいんです。厳密にはもともと「自分=世界」の立ち位置にあるんで、エゴから離れていけば、自ずとそれに返って行くしかありません。毎日の寝る前の10分でもいいので、瞑想でも今にあるでも、とにかくエゴの存在はフィクションであると実感できるメソッドなりをして、「自分=世界」の習慣を付け、それを徐々にトイレに入っている時や会社や学校の休憩時間でも思い出して、外では落ち着かないでしょうからガチでメソッドをしなくても、漠然と視界に広がっているこの世界は全部自分と一体だなんて意識してみるんです(アファメーションをする感じで言い聞かせても結構です)。
勝手な持論(経験上)ですが、気付きや体感は突然襲ってくるものではなく、ある程度「自分=世界」が意識の中で習慣化されて、あるラインを超えた辺りでクリアになって来るものだと考えています。業界人じゃない人が急に覚醒する確率よりも、明らかにメソッドなりをしている業界人の方が覚醒率は高いですからね(エビデンスなし)。
橋の上に物を積み上げて行って、橋が重さに耐えられずに崩れていくような感じで、天才的なひらめきとかではなく、これはただの意識の積み重ねですから、何も選ばれし者だけが気付けるものでもないんです(覚醒とか気付きとか大壮なものでもないですが)。なぜなら本来は誰しも「自分=世界」の足場に立っているわけで、その足元を見る習慣を付けるってことだけなんで。
まあ実際はそんなややこしいことは飛び越えて、願望は叶わないと思っている意識の習慣を、叶うという意識の習慣に変えればいいだけの話なんですが、それはそれでシンプルが故に難しいともなるので、急がば回れで「自分=世界」を迂回してやるのがいいのか、それは人によってそれぞれかと思います。