なる 「自分=世界」

「なる」の罠

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私が廃人だった頃に何処かの達人が言っていたことで、「Doing(する)ではなくBeing(在る)」なんて言葉がありましたが(その達人も受け売りかもしれません)、確かにこれもスピ界の格言だと思います。

普段から我々は意図せずとも自然に自分という個人にビーイング(アルファベットは面倒なので)しているわけで、このビーイングの状態がそのまま世界になっているわけです。決してドゥーイングが世界に反映されるわけではなく、ビーイングの方が世界に反映されることを肝に銘じる必要があります。

つまり、メソッド(ドゥーイング)そのものに力はなく、そのことで在り方(ビーイング)が変化するから、ドゥーイングに意味があるように見えるわけです。実際はおまじない程度のもので、ビーイングが変わらなければ意味がありません。つまりビーイングが変われば、ドゥーイングは必要ないわけです。

そういった意味で「なる」というメソッドはこのビーイングに直接アプローチするもので、言ってしまえば行動が不要どころか、むしろ行動する方が却って論理破綻のカオスとなってしまいます。そうですよね? 行動するということはその現状の立ち位置からずれたいからであって、叶っているという立ち位置なら決してそこから離れたいとは思わないからです。

ですから何かをしたいエゴちゃんに取って「なる」はシンプル故に難しいと言われ所以なのですが、なぜちゃんとなれないかというと、答えは禅問答のようですが、望む自分になれてないからなんです。結局、いつもの自分になってしまっているだけなんです。なぜいつもの自分に戻ってしまうのかといえば、不足を見た時にその不足(現実)を否定してしまうからなんです。

既に「なる」によって叶った充足の立ち位置にあるわけですから、嫌な現実が現れて、そこにエゴが不足を感じたその一連の出来事も叶った世界なんです。その不足を否定すると言うことは、今の自分の充足の在り方や叶っている世界を否定することでもあるので、それはつまりいつもの自分の立ち位置に戻ってしまうことになります。そしてまた望む現実を求め、振り出しから「なる」をしようとする。これはまさに「なる」とは似て否なる別物のドゥーイングな行為なんです。

エゴが不快に感じたからと言って、そこで不足を否定しちゃダメなんですね。エゴはただの誇大妄想野郎で、このエゴが勝手に決めつけた不足の現実を否定した瞬間、叶っていた世界も否定して、不足の立ち位置に戻っちゃうという「なる」の罠に引っかからないでください。

なかなかエゴ視点では不足の現実を叶ったものとしては受け入れ難いものですが、「ワイはなった瞬間に願望が実現してることを実感したいんや」と思いの方、それはもはや「なる」ではなく、今にあるなどの認識変更系の路線です。「なる」はエゴの視点のままでそんな小難しいことをすっ飛ばすことに意義があるわけですから、「なる」で突き進むなら、ある程度の力業を覚悟する必要があります。

逆に言えば「自分=世界」がわかれば自ずとそれは「なる」の状態になれちゃうので、力業の「なる」でショートカットするのか、認識の変更系で急がば回れをするのか、それは個人の好みによるところかと思います。(※厳密に言えば「なる」を続けることで、「自分=世界」も自然と体感できるとは思いますが)

-なる, 「自分=世界」

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