「自分=世界」

エゴがどこに焦点を向けているか

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地元に帰った際に親戚の赤ちゃんを目の当たりにしたんですが、これがなかなかのモンスターで、泣き出すともはや誰にも止められず、子育てがこんなにも大変なものかと痛感させられたのですが、同時にまた私は別の念にも打たれることになりました。

というのも、この赤ちゃんのありようはエゴそのもので、いつ泣くとも笑うとも知れず、ほぼコントロールが不能なんですね。抱いてみたり、ミルクをやったりすると泣き止む時もあれば、泣き止まずに果てなく泣き続けることもあり、もうほんとに気まぐれでエゴそのものだなんて思ったんです。

泣き止んでくれと思っても泣き止まないものですから、もう諦め半分でハイハイなんて言ってあやすんですが、この境地がいわゆる自己観察かと思われます。赤ちゃん(エゴ)と一体化せず(当然ですが)、かつ赤ちゃんの思うがままに任せながらも、愛しさと共に面倒を見る(いや、俺は赤ちゃんプレーで赤ちゃんそのものになれるという方、ご退場を願います)。

エゴというものは制御不可能なんですから、制御不能なものと一体化すれば、当然世界は制御不能なものとしか見えません。ブレーキの壊れた車にわざわざ乗り込んで、「俺は海の景色が見たいのに、この車は山道を駆け上がっていくぜ、どうすりゃいいんだよ」と言っているようなもので、「だったら車から飛び降りればいいんじゃん」というだけの話で、もっと言えば暴走車に乗ってるのは妄想で、雲の上からその暴走車を眺めて、のめり込みすぎた余り意識だけが運転席に座っているという状態なんで、ハッと暴走車さえも景色の一部だと思い出せばいいんです。

しかし感情の渦に飲み込まれている時にはなかなかそこから抜け出すのは難しいかと思われます。なぜなら、再度の言及になりますが、制御不可能だからです。

ですからエゴはどうしようもないんで、思い通りにできないですし、しようとしなくてもいいんです。付き合うのは徒労、まさしく時間の無駄。夏の日差しを浴びて、エゴに「暑いなんて思うな、バカチンが」と言ったってそりゃ無理な話です。暑いものは暑い。それと同じで悲しいものは悲しい。辛いものは辛い。

しかしそれでも、思考や感情の波が収まった時に内面に自由が効く時間があるかと思います。厳密には自由ではなく、それすらもオートマなのですが、細かい話は抜きにして、その感情からフリーになった内面状態があるはずです。その状態が所謂、本当の自分と捉えてもらって結構です。

意識が今にないとか細かいことはどうでもいいんで、狭窄的にならず冷静にいろんな可能性や視点に目を向けられる(現実に対する認識を柔軟に変化できる状態)、シンプルにその状態が世界と一体化した在り方なんです。

自分=世界を感じているのも所謂エゴ(自分という意識)ですからね。自己嫌悪にあるエゴの立ち位置と自分=世界を感じている立ち位置はシームレスなんですよ。ピュアなエゴがどちらかを選択して、それを自分だと認識しているに過ぎないんです。エゴがなけりゃ、それこそ賢者なのか廃人なの仙人のなのかよくわからない境地に行っちゃうと思うんで。単純にエゴが意識の焦点を当てている先の問題です。その焦点の先をただ体験しているだけなんです。

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