願望実現「Mr.長嶋(感覚)」編

価値判断をカスタマイズすべし!!

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神戸本日1月17日は、阪神大震災が発生した日です。一応は私も実家が震源地に近い地域でしたので、朝方に強い揺れで目を覚ましたことは記憶しております。幸い、私の住んでいた地域では震度が4程度にとどまり、倒壊等の表立った被害はなかったのですが、テレビから流れてくる神戸の空撮映像に、この地震が尋常ならざる規模のものであると子供心にも認識いたしました。

ただ、不謹慎を承知の上で申し上げますと、当時の私はまだ中学生でしたので、揺れを体感し、テレビで流された被災地の阿鼻叫喚絵図を目にしましても、自分とはどこか隔絶された出来事のようにしか思えず、そこに同情や悲哀の情も薄く、学校が急遽休校になったことを軽率にも喜んでおりました。

子供といえども己の薄情さに恥じ入るばかりなのですが、恥じるという思考が出てくるということは、その足場にある価値判断が存在するということです。その価値判断はこの場合ですと、人命の喪失は悲嘆すべき事柄というものです。この価値判断は万国共通で広く人類には受け入れられるものかと思いますが、だからといってそれが絶対的な真理であるとか、客観的な正しさに繋がるわけではありません。

私の場合は人間的な未熟さゆえに震災を顧みず休校に歓喜していたのですが、仮に学校で凄惨ないじめを受けていた生徒がいたとすればどうでしょう。震災で学校が損壊し、いじめていた生徒が命を落としていたとすれば、一般の人が見ている震災の景色とは違った景色がその生徒の前には広がっていたのではないでしょうか。皮肉にもその生徒にとっては震災が僥倖であり、救いとなるわけです。

何か達観したように、死は悲しいものではないと逆張りをしたいわけではありません。悲しい場に立ち会えば、悲しいのは当然です。それは止められません。ただ、その感情の色合いを決定し、そこに当然のように居座っている価値判断の根拠のファジーさにここでは留意して頂きたいのです。

私たちは普段、何かが起こった場合に限らず、平穏な日常においても常に価値判断に基づいた思考を垂れ流しています。価値判断は言い換えればエゴであり、その性質は制限です。「仕事をしなければお金は入ってこない」「出会いの場に行かなければ恋人ができない」などなど、視界の景色とは何の脈絡もなく、そういったことを意識のバックグラウンドで流し続けています。何度も申し上げていますように「エゴ(自分)=世界」ですから、そういった価値判断の箱庭の中で、羽を畳んだような小さな世界を創造しているのです。

しかし、前述しましたように、価値判断には本来、普遍的な善悪や正邪などはありません。ですので、自分で勝手に価値判断の枠を広げて、「仕事をしなくてもお金は入ってくる」「ひきこもっていても恋人ができる」など自由にカスタマイズすればいいのです。そうすれば、自ずとそれに沿った現実が展開されていきます。「〇職でもブログニストなれる」。これが私がひねり出した斬新な価値判断ですので、どうぞ参考にしてください。

最後に改めて震災で犠牲になった方やその遺族に哀悼の意を表したいと思います。

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