「今にある」って言葉はちょっと漠然とした表現なんで、いまいちピンと来ない方もいるかとは思いますが、簡単に言えば記憶喪失になることです。
エゴというのは早い話が記憶ですから、その記憶をポイしちゃえば、今いる「自分の部屋」がただの「部屋」となります。その状態が今にある状態です。思考を介在させてはいけないとか難しいことを考える必要はありません。景色を景色として眺めるだけです。そこに思い出なんかを付着させずに。すると何だか世界を傍観しているような心地になりますが、それが本来の世界だったりします。
まあ、そんな如何にもスピ的な話でなくとも、記憶というものは私たちの心に色んな縛りをかけています。
例えばある人に片思いをしているとして、その人が仮に海外にいたとします。そしてその海外にいるという情報が記憶としてインプットされると、「日本に住んでいる私は出会うことなんてできないわ」と記憶を持ち出しては制限をかけてしまうんですね。現実的な話としても、今その片思いの人は何らかの都合で日本に帰って来ているかも知れないですし、可能性はあるはずなのに、勝手に自らシャットアウトしてしまっているんですね。つまり記憶というものは世界の可能性、ひいては自分の可能性を縛っているわけなんです。
しかし本来の我々は何にも囚われない神のような存在ですから、そんな一個人の記憶に縛られるようなちっぽけな存在ではありません。今この場に好きな人がペガサスに跨って現れることを望んでも構わないわけです。誰もダメだんて言ってませんよね、そう、自分(エゴ=記憶)以外は。
ですから記憶という如何にも人間的な習性を捨て、自由になればいいんです。なればいいというか、デフォルトが自由なんです。神なんです。神が記憶に囚われてしまったせいで、ちっぽけな人間を演じるハメになっているだけなんで、その記憶という鎖を思い切って断ち切ればいいかと思います。