「(審判を)やらなきゃ意味ないよ」
こんな言葉を監督から囁かれたわけでもないでしょうが、少し前に話題になっていた高校バスケットボールでのコンゴ人留学生の審判殴打事件の動画を拝見いたしました。腕の長さを利用したキレのある右フックで、審判がまるでボウリングのピンのように倒れていました。メディアは、判定への不服と慣れない異国生活によるストレスとが相まって事件が引き起こされたと報道していますが、これはいかにも底の浅い見方と言わざるを得ません。私の見立てでは、このコンゴ人留学生は名作漫画『スラムダンク』の愛読者だった可能性があります。と申しますのも、スラムダンクの中に、陵南高校の「フクちゃん」こと福田吉兆が、叱って育てるという田岡監督の指導方針に耐えかねて、監督の額に貫手(指で突く技)をかますという場面が描かれているのです。おそらく彼の中でこのシーンがオーバーラップし、自己にフクちゃんを投影した結果、現実と漫画との区別がつかなくなり、暴挙に至ったと推測されます。
以上、名探偵〇職の推理でした。
さて、相変わらず忙しい週末(日曜日は週末で合ってます?)ということもあり、今回は曲球を使用せず、基本に立ち返ったようなシンプルさで勝負したいと思います。
このブログをご覧になっている大多数の方は、何かしらの願望を抱いていることかと思います。抱いているということは、それが叶っていない、すなわち不足の状態にあるということです。叶っていないから、叶えるための方策を探し、ネットを徘徊してはタイトルに「願望実現」というワードが入った極めて怪しいサイトを見つけ、アクセスして今このニートブログニストの拙文を呼んでいるわけです。
上記の流れ作業は今だけに限ったことではなく、おそらく読者の皆さんが日々、「無意識」の習慣として行っていることであろうと推測されますが、これはスピリチュアル的な見地から解析しますと、なかなか滑稽な情景であることが理解できます。
まずはじめに在り方(意識の立ち位置、前提)があります。そして、この在り方が世界を決定していくのですが、皆さんの在り方は前述のように「叶っていない」にロックされております。このロックされた叶っていないという立ち位置から、元々はニュートラルであるはずの世界に対して不足光線を浴びせかけ、自らが照らしたその不足の色彩世界の中で、エゴが叶えようとあくせくもがいているのです。
例えば、銭湯のサウナルームの中で「熱いよ! どうやったら涼しくなるんだよ!」と喚き散らしている一人の人間がいたとして、その人物に対して皆さんはどのような思いを持たれますでしょうか? おそらく、「熱いならとっとと出ろよw」というツッコミにも似た思いに駆られるかと思いますが、まさしくこの情景はコントそのものの滑稽さなのであります。
私から見れば廃人の皆さんもそれと同じなのです。この場合、サウナルームが在り方で、喚いている人物がエゴです。いくらこのサウナルームの中で立ち回ろうが、サウナルームにいる限り熱さ(不足)を回避する術はありません。回避するためには、ここがサウナルームであること(在り方)に気付き、その外に出るだけです。外に出ればそこは浴室で、水風呂や電気風呂、薬湯などもあり、自分がただサウナルームを無意識に選択していただけだと気付くことができます。
つまり、よく巷で言われています「思考に気付く」とは、エゴそのものではなく、そのエゴの思考や行動の源泉である無意識の前提(在り方)に「意識的に」気付くということであります。そうすれば世界はニュートラルであったということが理解でき、自分の在り方一つで「充足」「不足」、いずれにも世界を転がすことができるということに気付けるのです。