「自分=世界」 「今」にある

根拠(体感)を迂回するのもありっちゃあり!!

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保安灯昨日、読者の八九式中戦車さんからとんでもないご指摘を受けました。それは「金と女が降ってきた物語 」で紹介した、傘に5千円札が貼りついていたというエピソードで、私が頻りにその5千円札のことを「新渡戸稲造先生」と称していることに、「現在の5千円札の肖像は稲造先生ではないのではないか?」という至極真っ当な疑問兼ツッコミです。仰る通りでございます。お恥ずかしながら、現在は樋口一葉女史でありました。ただ、稲造先生であろうが一葉女史であろうが、5千円札の代名詞としてネタ的に使用しているだけであって、全体の文脈に何ら影響するものでもありませんので、当面はそのまま放置させて頂きます(複数個所あるので、暇な時に訂正します)。それにしても今の今までどなたからも指摘がなかったのは、私の無教養に触れないで置こうという読者の皆さまの優しさだったのでしょうか……。

さて、当ブログでは基本的に「自分=世界」を下敷きに、望む世界を見たいのなら、内面で望む自分で在ればいいということを再三再四、ミニにタコができるくらい申し上げていますが、コメント欄などを拝見していますと、エゴの性ではありますが、どうしても根拠(「自分=世界」の体感)を求められている方が散見されます。

体感(気付き)を求めると、体感を経なければ実現を許可しないという不足の在り方(条件付け)になってしまい、願望実現のみを求める場合には遠回りにもなりかねないのですが(メソッドをしていれば自然と身に付くものなので)、各人のエゴの強弱によっては体感を迂回した方が近道になる場合もあるかと思いますので、そのアプローチもありっちゃありであります。その方向性でいくのであればやはり、思考の停止や観察、つまり「今にある」ことが肝要かと個人的には思います。

それらをする上で私がお勧めする環境としましては、就寝前など喧騒がない時間帯での保安球程度の明るさを保った室内です。別に照明全開でも構いませんが、真っ暗闇は避けた方がいいかも知れません。それには理由が2つありまして、1つは睡眠防止と、もう1つは視界の確保です。なぜ視界を確保するのかと申しますと、「内面(自分)=視界(世界)」の実感に活用するためであります。


思考の観察(停止)をする時に注意したいのが、その実践と願望とをリンクさせないということです。願望が頭の隅にあると、「で、こっから、どうやって願望を実現すんの?」との雑念が忍び込み、すぐにエゴ(個人)の立ち位置に戻ってしまいます。ですので、ひとまず願望は置いて、見返りを求めず、ただ思考に向き合うことに注力することが先決だと思います。

感覚としましては、思考の観察(停止)でその実体の虚構性を見抜いていくと、その室内の空間に自分の肉体を含めた景色だけが残ります。そもそも思考は無色透明、いわゆる形而上なもので、それを知覚でもって捉えることはできません。その当たり前の事実に立ち返ることで、自然その空間がただ在るというだけになります。つまり、景色という名の意識だけが残るのです。

その意識(景色)が達人の言うところの本来の自分です。意識が景色で景色が意識というまさに溶け合っている在り方(「自分=世界」)なのです。その状態では在り方がそのまま世界となっていることを実感できます。その在り方は言ってみれば既存の思考(個人=エゴ)を脱却したものであり、自然に湧いてくる意図が何の弊害もなく瞬時に世界に反映されていく在り方なのです。と言いますか、ハナからいつ何時もその在り方だったのです。ただ、そこにエゴのフィルターを装着していただけだったのです。

※体感の部分に関してはあくまでも私個人の感覚です。実践環境についても、真っ暗闇であろうが銭湯であろうがご自身に最適な環境で構いません。

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