別の領域 自愛 「自分=世界」

崖の上のエゴ ~「自分=世界」の海に飛び込めますか?~

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崖最近は恐ろしく時間が過ぎるのが早く、気付けばもう12月なんですね。私も四捨五入をすると40歳なので、後20年もすると「幕府やったら死んでる」(2025年の大阪万博の決定を受け、その時には60歳になるというジミー大西の言葉)歳となります。さすがジミー大西、表現が微妙にズレていて、少しツボりました。ネットニュースでは「幕府(=江戸時代)」と補っておりましたが、果たして彼は本当に江戸幕府を想定して発言したのでしょうか。鎌倉や室町という可能性もありますが、よくよく考えればジミー大西にはそんな知識すらなさそうなので、江戸幕府という意味で使った可能性が高そうです。

パソコンからしばし離れていましたらコメント欄が何だか賑やかになっていて、私もついていけていない状況なのですが、とりあえずはじめましてのよっしーさん、ららさん、ひろせこういちさん、こんにちは。私が○職です。当ブログにご訪問頂きありがとうございます。

相変わらずブログに向き合う時間がないため、今回もそのコメント欄からネタを採集したいと思います。何やら拝見していますと、きゅーさんの書き込みで議論が活性化しているらしいので、それを取り上げようと思います。

私は復縁希望で、あれから自分なりのメソをしたり、こまさんブログを何度も読んだりずっとやってきて、つい最近「もうどんな心境でもどんな現実だろーが受け取ってよくね?」となり、ウフフ〜♪と良い気分になって過ごしていました。
が、現実を見て振り回されだし、「それでもいいし〜エゴが振り回されてるだけだし〜それでも受け取るし〜」とやっていましたが、だんだん「どこが叶ってんだよ!!なんも起きねー!むしろ悪化してるし!無視されてるじゃねーか!」となり、望んでないものを妄想をするようになり、そのたびに「いやいや、エゴがそう言ってるだーけ、もう叶ってるし、現実とか過去の映像だし、関係ないし!」とやるのですが、その攻防戦の繰り返しでヘトヘトになってしまいました。
かと言って現実になにか動きがあったわけでもなく、悪化してるようにエゴからは見えるのです。
もうこれ以上どう実践していいのかわからなくなりました。
正直…こんな自分が嫌になってきました。
何度やってもできない自分を責めだしました。
うまくいってないように見える現実に負けてます。
いや!叶ってるし、どんなんでも叶っていいよ!って言葉ももう届きません。
かといってやめらません。諦められません。絶望しても、それでも諦めが付きません。
受け取る意味が違うのでしょうか?現実で受け取るって意味かと思ってましたが、受け取れる自分になることが受け取るということですか?
ここまできてやめてたまるか!って意地にもなってます。
こまさん、みなさん、もしよかったらなにかいい方法はありませんか…ご助言頂けませんか…もうどうしたらいいかわかりません(;_;)


行っているアプローチとしては現実無視路線といった感じでしょうか。現実無視路線というのは、基本的には現実は不都合なもの、叶っていない状況だということを前提に行うものです。その叶っていないという現実と対峙して、自愛もできないほどに疲れ果ててしまったということですね。

ただ、自愛とはなんでもかんでも叶っているという言葉を最後に付け足すのが自愛ではなく、叶っていないや叶わないと思っている自分、つまりどんな自分でも許していくアプローチですので、自愛ができず、自分を責めている現状をやさしく受け入れるのも自愛です。つまり、自愛らしいものをしないことも自愛なのです。願望とは離れて、ただ受け入れる、許すことが本旨なので、あまり型にはまる必要はないかと思います。

現状を受け入れるというのは、そこにもう手を加えないということです。現実に対して何かをすることを止める。基本、何かをしようとしているということは叶っていないという立ち位置ですね。叶っていれば、現状に手を加えようと思わないはずです。つまり、受け入れるという在り方は叶っているという在り方に繋がっていくとも言えるのですが、今のキューさんには馬耳東風だと思いますので、これは余談です。

基本的に現実に軸を置いていると、受け取ることは難しいでしょう。現実に軸を置かなければ、思いついた時点で既にそれは受け取っていることになります。願望を想像する時には必ず叶っているという完了形の状態ありきですから、そこで現実の干渉を受けない限り、既にそうなっているのです。文面の最後にある「もうどうしたらいいのかわかりません(;_;)」というのがいい例です。なぜ何かをしようとするのでしょうか。現実の干渉を受け、エゴが「叶っていない」という前提を敷いているからですね。

現実が目に入って内面がブレるのであれば、やはり、このエゴの主張する「叶っていない」という前提を疑う逆のアプローチに舵を切るのも一つの手です。結局、叶っていないと判断しているのはエゴなので、そのエゴの尻を叩いてどうにかしようというアプローチではなく、そのエゴの判断を虚構だと看破していく方向です(私は併用していましたが)。まあ、判断というかエゴそのものを見抜く感じですが。

きゅーさんは上に引用したように長文の書き込みを行いましたが、これはきゅーさんが見ている世界の見事な描写と言えます。その世界を見ているのは当然、きゅーさんですが、エゴというフィルターを通した別人格のきゅーさんです。つまり、別人格のきゅーさんが長い書き込みをしているわけですから、それは本来のきゅーさんではないので、その全文を何言ってんだコイツ視点で眺めましょう。するとそれは別人格のきゅーさんの世界とはズレた本来の立ち位置(主体的な意識)に戻っていることになります。

本来の立ち位置に戻るという表現はある意味ソフトなものなので、活をいれる意味でもっとハードな表現をすれば、ひとまず内面から湧いてくる声は嬉しいもの苦しいもの全部含めてエゴから生成された毒物なので、全てを相手にしないことです。もっとツッコんで言えば願望に対しても相手をしないということです。ある意味それは崖から「自分=世界」という海に落ちていく「自我殺」ともいえますが、そこに勇気をもって飛び込めるかどうかです。飛び込めば角度が変わるというか、必ず視界が広く開けてきます。意地になっていらっしゃるようでしたら、一度全てを捨てて飛び込んでみてはいかがでしょうか。

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